日本歴史地名大系 「屋形村」の解説 屋形村やかたむら 兵庫県:神崎郡市川町屋形村[現在地名]市川町屋形浅野(あさの)村の北、市川左岸に位置し、神東(じんとう)郡に属した。西は市川を隔てて神西(じんさい)郡美佐(みさ)村など。村の南方に飯盛(いいもり)山がある。市川舟運の起点で、市川に沿って縦断する生野(いくの)街道の要地でもあった。菱屋平七長崎紀行(京都大学文学部蔵)の享和二年(一八〇二)五月八日条に福渡(ふくわたり)村から「川を渡れバ屋形(中略)、人家五六十軒、宿屋・茶屋あり」と記される。中世には川述(かわのべ)郷に含まれた。天正七年(一五七九)九月の大宮天神社神事次第(内藤文書)に屋形村とみえ、大宮天神社(現小畑の天満神社)の神事で「練テノ相撲」などを担当することとなっており、御旅所も村内に置かれていた。また社務を勤める高橋四郎太夫は屋形村の領主と考えられる。元禄年間(一六八八―一七〇四)成立の「赤松家播備作城記」に屋形飯盛山城主高橋備後守がみえる。高橋四郎太夫は、赤松則房の被官人として大河内(おおこうち)庄(現大河内町)内にも給分地をもっており、宍粟郡長水(ちようずい)城(現山崎町)城主宇野民部大輔(祐清)との大河内表合戦で負傷している(年月日未詳「赤松氏奉行人連署感状押紙」上月文書)。 屋形村やかたむら 千葉県:山武郡横芝町屋形村[現在地名]横芝町屋形新堀(につぽり)村の東に位置し、南東は海に面する。南東流していた栗山(くりやま)川は海沿いで大きく曲折し、汀線に並行して南西の蓮沼(はすぬま)村(現蓮沼村)方面に流れていた(明治一〇年代二万分一迅速測図)。浜方に塩場をもつ集落や地引網の納屋などがある。平将門と戦った下総介平良兼の館が当地にあったという説がある(日本地理志料)。近年、広尾(ひろお)地先において一一世紀代の製鉄工房跡が発見され、土器・須恵器など多数が出土した。「長久手戦話」に天正一八年(一五九〇)本多正信に「上総矢形一万石」が与えられたとあるのは当地を含む一帯と思われる。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高三七五石。寛文四年(一六六四)の生実藩領郷村高辻帳では高三七五石余、貞享元年(一六八四)の生実藩領郷村高辻帳では新田畑四三石余が加わっている。 屋形村やかたむら 福岡県:浮羽郡吉井町屋形村[現在地名]吉井町富永(とみなが)千代久(ちよひさ)村の東、耳納(みのう)山地の主峰である鷹取(たかとり)山(八〇二・一メートル)山麓に位置する。久留米城下より山辺(やまべ)往還(日田街道)で五里五町(「三番永覚帳」田代家文書)。永正五年(一五〇八)と推定される八月一六日の城重岑書状(五条家文書/史料纂集)によれば、生葉(いくは)郡「やかたの村」一三町などについて五条氏の当知行を保証している。屋形は星野氏の居城妙見(みようけん)城(妙顕城)の麓にあたり、星野氏の屋形(居館)が所在したと伝える。妙見城主星野重泰は、永正四年大友義長によって攻め滅ぼされたが、義長は星野の名跡を重んじ、一族の親実にその後を継がせたといわれる(北肥戦誌)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by