山内城跡(読み)やまうちじようあと

日本歴史地名大系 「山内城跡」の解説

山内城跡
やまうちじようあと

[現在地名]上中町山内

末野すえのとその西北にある山内の間を南北に走る山脈があり、城跡は末野の西側山頂と山内の南側にあたる峰上の二ヵ所にある。仮に末野側を上城、山内側を下城とよぶ。上城は山頂標高二〇五メートルにあり、ほぼ南北に八〇メートル、最大幅一二メートルの小規模な城である。郭は稜線上に三つ連続し、中心部が最も高い。最南端からは倉見くらみ峠が望見できるが、さほど眺望はよくない。一方、下城は山嶺より一段下って西側に張出した標高一三八メートルの平坦地にあり、東西六五メートル、南北六〇メートル。最高所は南北二五メートル、東西一七メートルの隅丸方形で、この郭を中心に四方大小の郭が接続する。下城東方の尾根続きの一峰にも見張台と考えられる遺構が認められ、それより南へ転じて進むと上城に達する。

山内城跡
さんないじようあと

[現在地名]五城目町富津内下山内

下山内しもさんないの北、標高約一五〇メートルの山地にある。

山内采女正が居住していたが、天正一六年(一五八八)に起きた湊騒動の際湊方に味方し、檜山方の秋田実季に敗れて松前まつまえに逃れたという(秋田風土記)。菅江真澄は「雪のやまごえ」に「上ミ山内村に、かの山内右衛門尉某の柵趾あり」とし、「ひなの遊」に「山内右衛門尉は其姓藤原にして、五十目内記秀盛、同兵庫秀兼の一族なり。天正十六年のころ、秀兼、比内大館の城代として此砦に居れり。密に南部に通し勢を催し、軍をいだし、城介実季と戦ひ、討負、南部へしそ(ママ)き その君に仕へり。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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