山崎橋跡(読み)やまさきのはしあと

日本歴史地名大系 「山崎橋跡」の解説

山崎橋跡
やまさきのはしあと

淀川に架けられていた橋。山崎の別称河陽かやから河陽橋とも書かれた(「続日本後紀」嘉祥元年八月五日条)。「行基年譜」によると、神亀二年(七二五)九月一日、弟子とともに山崎川(淀川)のほとりに来た行基が、河中に立つ一大柱を見て尋ねたところ、ある人がいうには往昔船の大徳(道昭)が渡した橋の柱であると答えた。そこで行基も発願して、同月一二日より山崎橋を渡し始めたという。この説話はにわかには信じがたいが、同年譜にひく「天平十三年記」は比較的信頼できるとされ、そのなかにいずみ大橋(現京都府相楽郡山城町と同木津町を結ぶ)など木津きづ川・淀川に渡された六橋の一に山崎橋がみえ、「在乙訓郡山崎郷、神亀二年九月十二日始起」とあることから、行基架橋説の信頼度も高いと思われる。長岡ながおか京の造営期にあたる延暦三年(七八四)七月、阿波讃岐・伊予三国に対し、山崎橋を造る材料を調進させている(「続日本紀」同月四日条)。造営にあたって山崎橋の重要性が高まったため朝廷の力による架橋が進められたのであろう。


山崎橋跡
やまさきのはしあと

[現在地名]大山崎町字大山崎

淀川に大山崎から対岸に向かって架けられていた橋。

「行基年譜」によれば、神亀二年(七二五)九月一日行基は弟子とともに山崎川のほとりにきたが、船を得られずとどまった。河中に一大柱をみて尋ねたところ、ある人のいうには、往昔船の大徳(道昭)が渡した柱であると答えた。そこで行基も発願して、同月一二日から山崎橋を渡し始めたという。この説話はにわかには信じ難いが、同年譜に引く「天平十三記」は比較的信頼度は高いとされ、そこにはいずみ大橋(現相楽郡山城町・同木津町を結ぶ)など六橋の一に山崎橋が記され、「在乙訓郡山崎郷、神亀二年九月十二日始起」としている。また六橋はいずれも木津きづ川と淀川に架かる。山崎橋の行基架橋説はかなり信頼度は高いといってよい。

次いで延暦三年(七八四)七月には、阿波・讃岐・伊予三国に山崎橋を造る料材を進めさせている(「続日本紀」同月四日条)。折から長岡京の造営期にあたって山崎橋の重要性が高まり、朝廷の力によって架橋が進められたものである。

弘仁元年(八一〇)九月、薬子の変に際して宇治橋・淀津とともに山崎橋にも兵を駐屯させて平城上皇方の動きに備え(「日本後紀」同月一一日条)、承和九年(八四二)七月にも、宇治橋・淀渡などとともに朝野宿禰貞吉に山崎橋を守らせ、伴健岑・橘逸勢らの謀反に備えさせている(「続日本後紀」同月一七日条)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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