伴健岑
とものこわみね
生没年不詳。平安初期の官人。春宮坊(とうぐうぼう)の帯刀舎人(たちはきのとねり)の任に就いていた。842年(承和9)7月、橘逸勢(たちばなのはやなり)らと皇太子の恒貞(つねさだ)親王を擁立し謀反を起こそうとしたという理由で捕らえられ、隠岐(おき)へ配流された。これを承和(じょうわ)の変というが、その発端は健岑が、嵯峨太上(さがだじょう)天皇が亡くなる数日前、弾正尹(だんじょうのいん)であった阿保(あぼ)親王のもとにきて、嵯峨太上天皇が亡くなれば国家の乱は起こるに違いないと語ったことにあった。しかしこの承和の変の真相は、藤原良房(よしふさ)の策略であって、皇太子の恒貞親王を廃し、良房の妹順子(じゅんし)の生んだ道康(みちやす)親王を皇太子にたて、あわせて良房一派の勢力を確立しようとしたところにあって、健岑は、その政治の流れのなかでの犠牲者の1人であった。
[佐伯有清]
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伴健岑 (とものこわみね)
平安前期の官人。生没年不詳。春宮坊帯刀として仁明天皇の皇太子恒貞親王につかえた。842年(承和9)7月,病床の嵯峨上皇が没すれば乱は必定であり,恒貞親王を奉じて東国に赴こう,と健岑が阿保親王を誘ったことが橘嘉智子のもとに伝えられ,上皇の没後に私邸で捕らえられた。健岑はその罪状を否認したが,拷問により隠岐に流罪となった(承和の変)。865年(貞観7)に赦免されたが,出雲に遷配された。
執筆者:佐藤 宗諄
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伴健岑
生年:生没年不詳
平安前期の官人。春宮坊帯刀舎人(護衛官)として皇太子恒貞親王(淳和天皇の皇子)に仕えたが,承和9(842)年7月,嵯峨上皇の重態を聞き,橘逸勢らと共に皇太子を奉じて東国に赴くことを計画,阿保親王(平城天皇皇子)にこれを図った。しかし阿保が太皇太后橘嘉智子に密告したため事件は発覚,逮捕され拷問の末,隠岐国へ配流された(承和の変)。道康親王(のちの文徳天皇)を立てるため,恒貞の廃太子をもくろむ藤原良房が嘉智子と仕組んだ陰謀との見方が強い。『三代実録』に載せる恩赦記事について,一般には貞観7(865)年5月,恩赦によって入京したのち,勅によって出雲国に遷配されたと理解するが不自然で,入京のことはなく,隠岐から出雲国へ「遷配」されたとみるべきであろう。以後赦免記事はなく,配所で没したのかもしれない。
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伴健岑
とものこわみね
生没年不詳。9世紀半ばの官人。皇太子恒貞(つねさだ)親王の春宮坊帯刀舎人(たちはきのとねり)であったが,842年(承和9)嵯峨上皇の重病に際し謀反を企てたとされ,上皇没後,橘逸勢(はやなり)とともに捕らえられた(承和の変)。恒貞親王は皇太子を廃され,道康親王(文徳天皇,母は藤原冬嗣(ふゆつぐ)の女順子)がたてられた。健岑は隠岐国へ配流。865年(貞観7)恩赦により罪を免じられたとして入京したが,勅により出雲へ遷配となる。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
伴健岑【とものこわみね】
平安前期の官人。生没年不詳。仁明天皇の皇太子恒貞親王に春宮坊帯刀として仕えたが,承和の変の首謀者とされ,嵯峨上皇の没後捕らえられ,隠岐に流罪となった。865年赦免され,出雲に遷配された。
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伴健岑 ともの-こわみね
?-? 平安時代前期の官吏。
仁明(にんみょう)天皇の皇太子恒貞(つねさだ)親王の帯刀舎人(たちはきのとねり)(護衛官)。承和(じょうわ)9年(842)橘逸勢(たちばなの-はやなり)らと親王を奉じて謀反を計画したとして捕らえられ,隠岐(おき)に流される(承和の変)。のち赦免となり,出雲(いずも)にうつされた。
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伴健岑
とものこわみね
平安時代前期の官人。大伴氏の一族。藤原良房によって承和の変 (842) の主謀者に仕立てられ,隠岐に流された。数年を経て入京したが,再び出雲に移された。良房の勢力拡大に伴う犠牲者の一人。 (→橘逸勢 )
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伴健岑
とものこわみね
生没年不詳
平安初期の貴族
823年大伴氏は伴氏と改めた。842年,橘逸勢 (たちばなのはやなり) らとともに,皇太子恒貞 (つねさだ) 親王を擁立して反乱をはかったとの理由で隠岐 (おき) に流罪となった(承和の変)。のち許されて入京したが,再び出雲に移された。
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世界大百科事典(旧版)内の伴健岑の言及
【承和の変】より
…平安初期の陰謀的な政治事件。842年(承和9)7月,嵯峨太上天皇葬儀の翌日,近衛府の兵により春宮坊帯刀の[伴健岑](とものこわみね)と但馬権守[橘逸勢](たちばなのはやなり)の私宅が囲まれ,健岑の同族も捕らえられた。平安京と京から地方へ向かう道の要衝5ヵ所を警固せよとの命令も発せられた。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」