山本義隆(読み)やまもとよしたか

日本大百科全書(ニッポニカ) 「山本義隆」の意味・わかりやすい解説

山本義隆
やまもとよしたか
(1941― )

1960年代に活動した全共闘運動活動家、物理学者。大阪府生まれ。東京大学大学院博士課程中退。1960年(昭和35)東京大学理科1類入学。1964年理学部卒業後、同大学院で素粒子論専攻、京都大学基礎物理学研究所に国内留学する。1969年、大学院在籍中に全国全共闘連合議長に選出され、同じ日に東大安田講堂事件(1969年、全共闘派学生が安田講堂を占拠し、機動隊とのあいだで3日間にわたり攻防が続けられた)の首謀者として指名手配され、翌年逮捕される。その後、全共闘運動が停滞して組織が解体した後も、東大では地震研究所や応用微生物研究所(名称いずれも当時)の闘争発端とする東大全学臨時職員雇用問題を巡る闘争が長期にわたって展開され、その過程で山本は数少ない活動家の一人として最後まで係わった。学生運動から退いた後は学校法人駿台(すんだい)予備校に勤務し、一物理学徒、科学史家として研究生活に専念する。

 山本が大学に入学したのは60年安保闘争の年であった。当初から特定党派には属さず、「非セクト活動家」であった。1962年大学管理法案反対闘争では「安田講堂前テント座り込み闘争」に参加。1965年「非セクト・個人加盟組織」を原則にした理学部学生中心の「東大ベトナム反戦会議」を結成。ベトナム反戦闘争や全共闘運動の高揚のなかで、学問研究の内実や主体のあり方が厳しく問われ、日本物理学会においても山本をはじめ若い物理学徒はその主題を提起した。1967年、日本物理学会臨時総会では、1年前に開催された日本物理学会主催、日本学術会議後援「第8回国際半導体会議」に際して、米国陸軍極東研究開発局の資金が持ち込まれたことに対する厳しい理事会批判が行われた。その結果、総会は「日本物理学会は今後内外を問わず、一切の軍隊からの援助、その他一切の協力関係をもたない」ことを決議した。この決議は、その後28年間にわたって日本物理学会総会のプログラム第1ページに掲げられていた。山本はこの総会で、水戸巌(いわお)(1933―1987)、小出昭一郎(1927―2008)、槌田敦(つちだあつし)(1933― )らとともに、中心的な役割を演じた。

 1968年、東大安田講堂攻防戦の半年前、学内のセクト・ノンセクト活動家によって東大闘争全学共闘会議(東大全共闘)が結成された。山本は司会をし、そのまま「代表」に選出されるはずであった。しかし、「共闘会議はあくまでも構成員全員が代表であり、個人によって体現されるべきではない」という組織原則によって、「名目的代表」は置かないで、テーマ別に「実質的代表格」が任務を分担し、山本もその一人となった。1969年全国全共闘連合が結成され、山本を議長に、日本大学の秋田明大(あけひろ)を副議長に選出する。しかし全共闘連合はこの結成大会をピークに解体の一途を辿り、1970年代前半で幕を閉じた。以後、全共闘連合議長としての山本は「長い沈黙」(塩川喜信(よしのぶ)(1935―2016))を続けてきた。

 では、山本が自らを封印して久しい全共闘運動の歴史的背景には何が存在していたか。そこには、1960年池田勇人(はやと)内閣の「所得倍増」のかけ声とともに始まった日本の高度経済成長政策に伴うインフレと労働力不足があり、同時に大学生数が百万名を突破(1964)、大卒者数が中卒者数を上回る(1970)というひずみを内包した大学再編過程と、それと表裏をなす大学の不正入試、学費値上げ、学生会館管理運営、学友会費凍結問題などのさまざまな個別的課題が混在していた。これらの諸問題を契機にして、学園闘争はやがて大学叛乱・全共闘運動、70年安保・沖縄返還闘争へと合流していった。また学園闘争は、「帝国主義イデオロギー生産工場拒否」「産学協同路線―産業予備軍養成拒否」「大学解体―自己否定」「大学・寮・学生会館の管理運営体制強化反対」「インフレ対策―授業料値上げ阻止」「登録医・インターン制改悪反対」等争点は多岐にわたった。また、闘争形態としては全学バリケード封鎖による「徹底抗戦」として展開され、大学は「70年安保、大衆的街頭武装叛乱の出撃拠点」となり、バリケードの中では、既成のアカデミズムに対するアンチテーゼとして「反大学―自主講座運動」が広範かつ創造的に実施された。さらに、第二次世界大戦後いち早く再建された大学自治会の活動組織形態については、これを戦後ブルジョア・デモクラシーという形式民主主義の虚妄性を象徴した管理組織=ポツダム自治会(第二次世界大戦後結成された全員参加型自治会)であり、全員加盟制、全員投票、多数決方式という形式主義的組織形態であると、否定的に批判しつつ、それを超えた自由で自立した諸個人による直接参加・行動に基づく自主的団結形態を基盤としたコンミューン型団結組織=全共闘会議という運動組織を提起して実現を目指し、その規模も全国主要大学の半数以上に達した。

 山本はこのような激動の歴史のなかに自己の定立を求めた。「デモから帰ると平和な研究室があり、研究できるというのはたまらない欺瞞である。研究室と街頭の亀裂は両者を往復しても埋められない。では研究をやめるべきか。それは矛盾の止揚ではなく、矛盾からの逃避ではないか。徹底した批判的原理に基づいて自己の日常的存在を検証し、普遍的な認識に立ち返る努力をすること。そうして得られた認識に従って、社会に寄生し、労働者階級に敵対している自己を否定し、そこから社会的変革を実践する」(「攻撃的知性の復権」『朝日ジャーナル』1969年3月2日号所収)。当時、山本は自身の置かれていた状況についてこのように述べていた。

 70年安保闘争・全共闘運動の退潮と共に、多くの活動家が大学に復帰するなかで、山本は大学へは戻らず、教育の矛盾の結節点ともいうべき大学予備校の教師となった。予備校生からは高い評価と人気を集め、大学で物理学、科学史、科学哲学を学ぶ多くの物理学徒を送り出し、自らも物理学者、科学史家としての研究を続けた。学界に属さないため、東大物性研図書館で図書閲覧を拒否されるなど在野の研究者の不便を強いられたり、「研究者集団との没交渉」に不安を抱きつつも、予備校の教え子が外国から送ってくれた資料のコピーに助けられることも多かった。このような孤高の物理学史研究の中で「プロの研究者が考えつかなかった独自の論点=遠隔作用」と綿密な文献考証によって画期的な力学通史『磁力と重力の発見』(2003)を発表し、同書で毎日出版文化賞、大仏(おさらぎ)次郎賞、パピルス賞(財団法人関科学技術振興記念財団が創設した賞。科学・技術書部門、人文・社会科学書部門で学問と社会をつなぐ役割を果たした著書を顕彰する)を受賞した。同書は、磁力と重力との親縁性を通じて、西洋近代科学の誕生を解き明かしたもので、とりわけ古代・中世に関する科学史的な考察は、日本では類を見ない。また近代科学の成立根拠を問い直すことにより社会の学問に対する姿勢に――とりわけ理科と文科の分離が進む現在の日本社会に対して――大きな示唆を与えた。しかも、これは専門の研究者集団の外で「手探りで勉強を続けながら」書かれ、それ故にこそ独創的な仕事となった。そのほかの著書には『知性の反乱』(1969)、『熱学思想の史的展開』(1987)、『古典力学の形成』(1997)、『解析力学』(1998。共著)などがあり、ボーアやカッシーラーの翻訳書もある。

[蔵田計成]

『『知性の反乱――東大解体まで』(1969・前衛社)』『『重力と力学的世界――古典としての古典力学』(1981・現代数学社)』『『熱学思想の史的展開――熱とエントロピー』(1987・現代数学社)』『『古典力学の形成――ニュートンからラグランジュへ』(1997・日本評論社)』『『磁力と重力の発見』全3巻(2003・みすず書房)』『山本義隆・中村孔一著『解析力学』1・2(1998・朝倉書店)』

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「山本義隆」の解説

山本義隆 やまもと-よしたか

1941- 昭和時代後期-平成時代の学生運動家,科学史家。
昭和16年12月12日生まれ。43年の東大闘争で東大全学共闘会議議長となり,44年の安田講堂封鎖解除をめぐる機動隊との攻防戦を指揮。「自己否定の論理」と東大の解体を主張して,同年の全国全共闘議長にもえらばれた。のち予備校講師。「磁力と重力の発見」で平成15年毎日出版文化賞,16年大仏次郎賞。大阪出身。東大卒。著作はほかに「知性の叛乱」など。

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