科学史(読み)かがくし

日本大百科全書(ニッポニカ) 「科学史」の意味・わかりやすい解説

科学史
かがくし

科学には、自然科学と社会科学がある。科学史は広義には両者をあわせた学問の歴史をその対象とするが、一般には自然科学の歴史を対象とする。

 自然科学は、政治、経済、文化などの社会的諸条件が絡み合った状況の下で営まれる知的活動であるから、それらの諸条件は科学の発展に大きく影響を及ぼす。また科学が政治、経済、文化に影響を与え、思想形成にかかわってイデオロギーに影響を与える。そうした自然科学を対象とする科学史という学問は、単なる「科学の歴史」、つまり過去の科学的業績の列挙や言及だけにとどまるものではない。自然科学の方法と体系の発展を論理的過程として考察し、自然科学とそれが位置する社会的諸関係を考究することによって、独立した歴史科学としての科学史研究が成立すると考えられる。以下、科学史の発展過程を考察し、科学史のもつ今日的課題などを明らかにしたい。

[髙山 進]

科学史のおこり

中世の錬金術師の書いたテキストには錬金術の歴史が登場する。錬金術がいかに古代から連綿と続いてきたかを述べることが一つの権威づけの手段となった。近代科学は古代ギリシアやそれ以前の観測結果や理論を大いに利用し、新しい体系化を行ったが、まとまった科学史が記述されることはなかった。それでも天文学では、バビロニアやギリシアの時代の観測データが16世紀のコペルニクスのころまで利用されたし、近代の力学はユークリッドアルキメデスの理論に依拠しており、知識の継承性、歴史性を人々に印象づけた。

 17世紀、イギリスロイヤル・ソサイエティーが創立された直後にスプラットThomas Sprat(1635―1713)が依頼されてまとめた『王立協会史』(1667)は、協会としての目的である実験科学の重要性を人々に訴えるために歴史的根拠づけを行ったものである。

[髙山 進]

個別科学史と総合科学史

18世紀末から19世紀にかけて、科学の個別諸分野を歴史的展開過程に沿って記述する試みが現れ始めた。一つは個別科学の歴史と現状の両者を融合させて記述するスタイルで、プリーストリーが電気学史と光学史で行い、トムソンThomas Thomson(1773―1852)が化学史で行った。もう一つは個別科学史としてまとまった著作で、ベイリーJean Sylvain Bailly(1736―1793)の『古代天文学』(1775)と『近代天文学』(1778~1782)、ドランブルJean-Baptiste Joseph Delambre(1749―1822)の『古代天文学史』(1817)、モンテュクラJean Étienne Montucla(1725―1799)の『数学史』(1758)、フィッシャーJohann Carl Fischer(1760/1761―1833)による『物理学史』(1801~1808)、グメーリンJohann Friedrich Gmelin(1748―1804)の『化学史』(1797~1799)などがまとめられた。個別科学の理論体系が確立し、それらの体系を中心に教科書が編まれるようになると、教科書のなかにほとんど歴史的記述が位置づけられないものもあり、自然科学の体系的な叙述の方法にさまざまな種類のものが並存した。

 19世紀には個別科学史の業績が数多く生み出された。イギリスのグラントRobert Grant(1814―1892)の『物理的天文学の歴史』(1852)、ショルレンマーの『有機化学の起源と発展』(1879)、クラークAgnes M. Clarke(1842―1907)の『19世紀天文学史』(1885)、ホイッタカーEdmund T. Whittaker(1873―1956)の『エーテルと電気の歴史』(1910)、ドイツのコップの『化学の歴史』(1843~1847)、コベルFranz von Kobell(1803―1882)の『鉱物学史』(1864)、カルスJulius Victor Carus(1823―1903)の『動物学史』(1872)などがあげられる。

 個別科学史の枠を超え、自然科学全体の歴史をある一定の哲学的見解によってまとめあげる「総合科学史」を提起したのは、実証主義哲学を確立したコントと、仮説演繹(えんえき)法の提唱者であったヒューウェルWilliam Whewell(1794―1866)であった。コントは『実証哲学講義』(1830~1842)のなかで科学史を位置づけ、ヒューウェルは『帰納科学の歴史』(1837)を著した。コントの友人ラフィットPierre Laffitte(1823―1903)は1892年、パリ大学に設けられた「科学の一般史」の教授となり、実証主義の系譜に位置づくマッハは1895年、ウィーン大学の「哲学とくに帰納科学の歴史と理論」の教授となった。マッハは実証主義やエネルゲティークの思想を、力学史、熱学史といった個別科学史を批判的に再構成することによって根拠づけた。このころから科学史が一つの学問として認められ始めたといえよう。

 科学史を専門分野として確立することに貢献したサートンGeorge A. L. Sarton(1884―1956)は思想的には実証主義の立場にたつ。彼の書誌学的な著作『科学史序説』(1927~1947、邦訳名は『古代・中世科学史』)は、古代から14世紀までを扱い、その対象は個別史にとどまらず、またヨーロッパ圏のみに限定されない総合性をもっていた。そして彼は科学史専門誌『アイシス』Isisを創刊し(1913)、第1回国際科学史会議を実現させ(1929)、科学史の確立と普及に努めた。

[髙山 進]

一般科学史の開始

1931年の第2回国際科学史会議にソビエト連邦から参加したヘッセンB. Hessen(1893―1936)は、マルクスの提起した「歴史の唯物論的解釈」に基づき、「ニュートンの『プリンキピア』の社会的・経済的基礎」を報告して話題を集めた。ヘッセンは、ニュートンおよび近代科学形成期の科学者の仕事の要因を社会のなかに求めた。すなわち、封建制が崩壊し、商人資本主義が台頭する時代に、運輸と鉱山業と軍需工業が盛んになり、そこから生じた技術的課題に促されて、自然科学者たちは力学の問題に取り組んだのであり、ニュートンの力学の完成も、それらの努力の蓄積のうえに位置づけられるとした。また、ニュートンの力学体系のまとめ方のなかに彼の神のイメージが深く浸透しているが、それは、当時の勃興(ぼっこう)しつつあったブルジョア階級の世界観の反映である、とも述べた。

 ヘッセンの論文は欧米の若手科学史家たちに大きな衝撃を与えた。バナールクラウザーJames Gerald Crowther(1899―1983)、ニーダム、R・K・マートンらは、科学の社会的関係をさまざまな側面から研究した。バナールは『科学の社会的機能』(1929)で、広範な社会現象としての科学を論じた。クラウザーは『科学の社会的関係』(1941)で、科学史の通史を書くことによってその関係を立証した。ニーダムは中国科学史について、「近代科学が中国の文明では発達せず、ヨーロッパのみで発達したのはなぜか」という問題をたてて研究を始め、その理由をヨーロッパと中国の社会構造の違いに求めた。マートンは『17世紀イギリスにおける科学・技術・社会』(1938)で、ヘッセンの主張を資料的に跡づけし、17世紀イギリスでは経済的・技術的要求が科学研究に方向を与えたという命題を打ち立てた。マートンの主張した第二の命題は、同じく17世紀のイギリスにおいて、ピューリタニズムの倫理が科学を発達させる一つの重要な要素となったというものであった。

 以上のように1930年代に至って初めて科学史が、単に知的・精神的な枠のなかだけでなく、一般歴史学が扱うさまざまな要因との関係で論じうることが明らかとなった。この一般歴史学に位置づけられる科学史を、個別科学史・総合科学史と区別して一般科学史と表現すれば、1930年代は一般科学史の可能性が開かれた時代といえる。バナールは『科学の社会的機能』の冒頭で、「科学の結果が、少なくとも中流以上の階級に純粋な恩恵のように見えた間は、科学の社会的機能はわかりきったものとして検討を要しなかった。しかし科学が建設的と同時に破壊的な役割をも演ずるようになった今日では、その生存権そのものさえ否認されようとしているのであるから、その社会的機能はぜひとも検討されなければならない」と述べている。経済恐慌やファシズムの出現といった社会的できごとにかかわって、科学が財政的・思想的に圧迫されるという事態が相次いだなかで、科学の社会的価値を改めて広くとらえ直そうというのがバナールの動機であった。

[髙山 進]

内的科学史の確立

1939年、コイレは『ガリレオ研究』を出版した。彼は膨大な一次資料を駆使して、ガリレイの力学形成に影響を与えたのは古代の知的伝統にほかならないことを証明し、「古典自然学のメカニズムは職人や技師の考えどころか、まさしくこれの否定である」と述べて、ヘッセンやバナール、ニーダムらが切り開いた「外的科学史」の見解を正面から否定した。その根拠として彼は、ガリレイが経験や実験に依拠したのではなく、実在ではない完全な球、滑らかな平面といった理想状態を想定し、思考実験や数学によって推論したことを強調する。コイレは、この方法の先駆者として古代ギリシアのアルキメデスやプラトンをあげ、ガリレイをプラトン主義者と断定した。彼はまた『閉じた世界から無限宇宙へ』(1957)のなかで、近代力学が依拠した自然観の転換を「コスモス(階層的秩序的宇宙)の解体と空間の幾何学化」と特徴づけた。こうした仕事が「内的科学史」の潮流の出発点であり、ホールAlfred Rupert Hall(1920―2009)の「知的な変化は知性の歴史のなかにそれを説明するものを探さなければならない」とすることばが、その基本姿勢を示している。

 第二次世界大戦後、1949年、歴史学者のバターフィールドは、「内的科学史」の立場を踏襲しながら、科学を一般歴史に位置づけようと試みる『近代科学の誕生』を発表した。ここで彼は、17世紀ヨーロッパでの個別諸科学の発展は、科学者が「新しい思考の帽子をかぶって」自然を見直したことによって引き起こされたとし、これを「科学革命」と表現して、この革命に人類史上での高い評価を与え、「近代世界と近代精神の真の生みの親」とした。「科学革命」こそヨーロッパの創造的産物であり、ルネサンスや宗教改革より重要な近代の時代区分を与えるものとするバターフィールドの議論は「科学革命論」とよばれる。

 コイレ、バターフィールドによって定着した「内的科学史」、もしくは思想と科学との相互関連を通して描いた歴史は、ちょうど科学史が専門分野として確立していく時期であったことと重なり、多くの優れた仕事を残した。代表的な研究者に、クラゲットMarshall Clagett(1916―2005)、コーエンI. Bernard Cohen(1914―2003)、ギリスピーCharles Coulston Gillispie(1918―2015)、クーン、ホールらがいる。1950年代、1960年代は「内的科学史」が科学史研究の主流を占めたが、前記ホールは、「外的科学史」が科学それ自体についてはほとんど語らず、また、自然科学が経済的・社会的状態から「因果的に決定される」とするのは不適切であるとして、内的科学史の優位を主張している。この彼の主張の背景には、バターフィールドと同様な「科学革命論」的歴史観がある。すなわち、科学は他の社会的諸要因を超越するほどの深い意味をもつがゆえに、科学の独立した歴史を記述すべきであるという立場であり、バナールとは違った意味での科学の社会的位置づけを前提としていた。

[髙山 進]

最近の特徴

以上のように、科学史のとらえ方は時代によって変わってきた。それをまとめていえば、(1)社会における科学像の変化、もしくは科学史家自身の科学と社会に対する認識の変化、(2)科学史が専門研究として成り立つための方法の確立、の二つが大きく科学史の姿を規定していたといえよう。

 ところで1970年以降、科学史学は、科学者のつくる制度(学派、大学、アカデミー、学会、研究所など)と科学研究の関係を中心としてさまざまな研究実績をあげつつある。この「外的科学史」の復活ともいえる変化を前記2点に照らして考えてみると、(1)1960年代後半から1970年代にかけて、公害や環境問題が表面化したこと、また、戦後一貫して国家による強力な科学技術政策が推進され、その軍事中心化が進み、ベトナム戦争や核兵器が社会問題化されることによって、科学が社会から切り離された純粋な知的営みとはもはや考えられなくなってきた。(2)マートンが創始した科学社会学がしだいに成果をあげ、1970年代に入ると次々に成果が出版され始めた。また、「内的科学史」と「外的科学史」が互いに孤立して議論はできず、本来融合されるべきであるという主張がクーンらにより熱心に提起された。

 クーンは、科学理論の転換が結局は科学者集団を媒介して行われるという立場を主張した。科学者集団はある特定のパラダイム(範型)の下で研究しているが、パラダイムの危機を乗り越えるのは結局は別のパラダイムであり、別の科学者集団であるとした。こうしてクーンは、科学的認識と科学者集団との関係を論じる糸口をつけ、「内的」アプローチと「外的」アプローチとの融合を主張した。

 こうして1970年代に入って、科学と科学者の社会=科学制度との関連の問題が注目を集め、それに伴って研究の対象も、従来は17世紀近代科学が主流であったものが、しだいに19、20世紀の科学史へと移行しつつある。19世紀の物理学史について、研究方法の共通性によってまとまりがつけられる学問分野(たとえば、ラプラス的方法、フーリエ的方法、エネルギー物理学の方法など)を中心に置き、物理学の内容と制度的特徴との関連を扱うという、いわゆる「分野形成史」の研究が、近年その成果を蓄積しつつある。また、19世紀から20世紀にかけて科学が技術と接近しながら産業界に取り込まれていく状況について、特定の学問分野が自立・制度化されていく過程を中心とし、いわゆる「内的」要因と「外的」要因の双方から扱っていく研究が増えてきている。

[髙山 進]

科学史のあり方・課題

科学を社会との関係において位置づけ、その発展の過程を跡づけるとともに、現代の科学の諸問題にこたえ、今後の科学と社会のあるべき関係が予測できるような科学史が今日求められており、そのための方法が問われている。「外的科学史」とはいえ、科学と科学制度、科学者集団との関係の研究でとどまっていては不十分であろう。一般歴史や社会に明確に位置づいた科学史が描けてこそ、現代の問題にこたえうる科学観が提起できる。例を近代科学の形成にとろう。近代科学の哲学である機械論的自然観は、コイレらが明らかにしたように、当時の新しい宇宙理論や力学、物質理論にとって適合的な自然観であり、またそうした科学の変化によって促された自然観である。しかし、こうした自然観や自然科学の転換の歴史的・社会的原因を問いかけることなしに、突然のできごと、古代思想の復活という形でかたづけてしまうのでは不十分である。機械論的自然観は、スコラ的な目的論や神秘的な隠された力(オカルト力)による自然の説明、あるいは宗教的な啓示や奇跡の容認といった、もろもろの自然観を否定する立場として確立した。それはヨーロッパが中世から近代にかけて、ルネサンス、宗教改革という構造的な転換を経験し、とくに17世紀には宗教戦争やペスト、凶作といったできごとが相次ぎ、深刻な社会的・経済的・文化的危機を迎えたなかで人々が選択した価値観の一側面であった。そのような状況の下で新しく台頭してきた商人や職人の活動、中世社会では蔑視(べっし)されていた技術が学問の対象となっていく過程が重なり、近代科学が形成されていった。

 ヘッセンやニーダムはこうした広い意味での科学と社会の関連を問いかけており、そこにはいまなお学ぶべき点は多い。ヘッセンは、前出「ニュートンの『プリンキピア』の社会的・経済的基礎」の論文で、16~17世紀における商業資本主義の活動およびマニュファクチュア期の技術と力学の形成の関係、あるいは産業資本主義および蒸気機関の出現とエネルギーの認識の関係など、科学認識の内容の歴史的継起の必然性とその社会的根拠を考察している。このような総合的なテーマは、クーンによる科学者集団が任意に選択するパラダイムの転換の議論の枠内では扱いきれない。たとえば20世紀の古典物理学から現代物理学へのドラスティックな転換の必然性とその社会的根拠を問題にするとき、19世紀後半以降の電気技術とそれにかかわる実験技術の向上、そして独占資本主義の下での産業や国家による科学や技術への資本投下といった経済的要因をも含めて議論を組み立てる必要があろう。

 また、ニーダムは、中国の科学史を問題にしながらヘッセンの精神を継承している。彼は、ヨーロッパにおいてのみ近代科学が発達したのはなぜか、という問いと同時に、「紀元前1世紀から紀元後15世紀までの間は、中国文明のほうが自然についての知識を、現実の人間の諸要求に適用する点で、西洋文明よりもはるかに優れていたのはなぜか」という問いをたて、古代から発達していた中国特有の官僚制の意義、国家の科学に対する熱心な援助、社会のなかでの学者の地位などを考察しながら歴史的な解明を試みている。ニーダムの立場は非ヨーロッパ文化圏の独自の科学的伝統を、それ自身まとまりをもったものとしてとらえ、その特質を問い、発展を論じ、そのうえでヨーロッパとも比較している点で学ぶべきことは多い。ニーダムはすでに1960年代なかばに、「ヨーロッパの危機の時代に、科学と社会の関係への関心がふたたび大きく回復されてくるだろうと確信している」と述べている。科学技術が巨大化し、人類の運命を左右するまでになっている今日、科学の正しい社会的位置づけを与えられる科学史が求められている。

[髙山 進]

『S・メイスン著、矢島祐利訳『科学の歴史』上下(1955、1956・岩波書店)』『J・D・バナール著、鎮目恭夫訳『歴史における科学』全4巻(1967・みすず書房)』『M・ゴールドスミス、A・マカイ編、是永純弘訳『科学の科学 科学技術時代の社会』(1969・法政大学出版局)』『J・ニーダム著、東畑精一・藪内清監修『中国の科学と文明』全11巻(1980~1983・思索社)』『キャロリン・マーチャント著、団まりな他訳『自然の死――科学革命と女・エコロジー』(1985・工作舎)』『村上陽一郎著『技術(テクノロジー)とは何か――科学と人間の視点から』(1986・日本放送出版協会)』『伊東俊太郎・村上陽一郎共編『講座科学史』全4巻(1989、1990・培風館)』『村上陽一郎著『文明のなかの科学』(1994・青土社)』『大沼正則著『人間の歴史を考える12 技術と労働』(1995・岩波書店)』『スティーヴン・シェイピン著、川田勝訳『「科学革命」とは何だったのか――新しい歴史観の試み』(1998・白水社)』『中山茂・吉岡斉編著『科学革命の現在史――日本の持続可能な未来のために』(2002・学陽書房)』『トーマス・クーン著、安孫子誠也・佐野正博訳『科学革命における本質的緊張』新装版(2018・みすず書房)』『H・バターフィールド著、渡辺正雄訳『近代科学の誕生』(講談社学術文庫)』『佐々木力著『科学革命の歴史構造』上下(講談社学術文庫)』

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改訂新版 世界大百科事典 「科学史」の意味・わかりやすい解説

科学史 (かがくし)
history of science

自然科学の歴史を扱う学問領域をいうが,自然科学をどのように定義するかによって,科学史の概念規定もかなり変わる。最も広く定義して,自然についてのなんらかの体系的知識を自然科学と呼ぶことにすれば,その種の知識体系は,どの時代,どの文化圏にも存在したはずであり,かつ今日でも存在しているはずである。事実,科学史の課題をそうした比較科学史的な関心に引き寄せて論じようとする論者もあり,たとえばJ.ニーダムの手で進行中の大著《中国の科学と文明》(1954-)などは,必ずしも明確な比較的手法をとってはいないものの,基本的にはそうした関心のもとで書かれている。しかし,一般には科学は近代ヨーロッパの所産と考えられており,事実,今日〈(自然)科学〉の名に値するものは,いっさいの概念を西欧に負っているとみなされる。それゆえ,科学史の課題は,とりあえずは,西欧で,そうした独特の科学の体系がどのような史的展開のなかから生まれ育って今日に至っているかを跡づける学問であり,仮に西欧以外の文化圏に目が向く場合も,西欧的科学に似たものをどれだけ見いだすことができるか,という立場をとることが多い。

 科学という一つの知識領域が,他の知識の領域からは独立した,ある特別の方法論にのっとったものであり,それゆえまた,特別の性格を備えたものである,という考え方が西欧で生まれてくるのは19世紀のことである。それゆえ,〈科学の歴史〉をたどろうとする試みも,19世紀西欧に始まったといってよい。たとえば,イギリスのJ.プリーストリーの一連の先駆的な仕事,そしてフランスのA.コントが提案した〈科学の歴史histoire de la science〉や,イギリスのW.ヒューエルの著した《帰納科学の歴史》(1837)などが,そうした試みを代表する。もとよりそれ以前にも,すでに個別の学問として成立していた数学や,天文学,医学などに関しては,それぞれに,個別的な学問史が書かれたことがあった(たとえばルクレールD.Leclerc(1652-1728)の《医学史》(1696,1723)やドランブルJ.Delambre(1749-1822)の《古代天文学史》(1817)など)が,科学が一つの理念として成立しはじめる19世紀半ば近くになって,ようやく科学史という学問もその理念を体して誕生したといえよう。このような段階では,科学の概念規定は,あまり重要視されなかった。なぜなら,むしろ科学が経験に基づき,客観的な真理を究める普遍的な知識体系であり,数学的な方法に裏打ちされた確実な予言能力をもつという,今日でも一般には信じられているその特権性が自明のものと考えられていたからである。その自明性を最も傲慢な態度であからさまにした例として,ドレーパーJ.W.Draperの《宗教と科学の闘争史》(1875)が挙げられよう。したがって,科学の特権性を過去の歴史のなかに跡づけ,あるいはそうした体系の部分的な一片一片を,他の文化圏の歴史のなかに発見するという,データ探しが,19世紀の動きを受けついだ20世紀前半の重要な学問上の目標となった。

 ベルギーに生まれ,1915年からアメリカに渡ったG.サートンの大著《科学史序説》(1927-47),ドイツのF.ダンネマンの《大自然科学史》(1910-13),あるいはフランスのP.タンヌリーの《科学史論集》(1912-50),イギリスのC.シンガーの一連の著作活動など,いずれも百科事典的な浩瀚(こうかん)な内容をもつもので,データの集積作業であった。それとともに,科学史はこの時期に学問としても制度化されはじめ,サートンが1912年に創刊した論文誌《アイシスIsis》は,アメリカ科学史学会(1924設立)の機関誌として今日に至っており,国際的にも最も権威ある学会誌の一つになっている。

 次にこうして集積されたデータを基にして,ある歴史観あるいは解釈を加えて,なんらかの筋の通った歴史を構成しようとする試みが生まれてくる。フランスの物理学者P.デュエムや,ロシアに生まれ,最後はアメリカに渡ったA.コイレの一連の仕事を先駆として,アメリカのギリスピーC.C.Gillispieの《客観性の刃》(1960。邦題《科学思想の歴史》)に至るさまざまな科学史書が,その範疇(はんちゆう)に入ると思われる。もっともこの時期には,客観的な記述を目ざした通史,たとえばメーソンS.F.Mason《科学の歴史》(1953)などの試みもあり,あるいは,従来の啓蒙史観に由来する中世蔑視に対する反省から中世に照明を当てたクロンビーA.C.Crombie《アウグスティヌスからガリレオヘ》(1953,59。邦題《中世から近代への科学史》)やH.バターフィールド《近代科学の起源》(1949)などの著作が現れた。さらには,こうした学説の史的展開のみを扱う〈内部史internal history〉に対して,主としてマルクス主義の立場から,科学を社会的,経済的な文脈から眺めようとする〈外部史external history〉の主張として,ヘッセンB.Hessenの論文《ニュートンの“プリンキピア”の社会・経済的基礎》(1931)やJ.D.バナールの《科学の社会的機能》(1939)なども世に問われている。

 科学史における新しい波は,1960年代に入って現れた。この段階は,科学の方法論についての科学哲学的吟味,たとえばK.R.ポッパーの《探究の論理》(1934)への疑念に端を発しており,そのきっかけはハンソンN.R.Hansonの《発見の諸型》(1958)によってつくられたといってよい。ハンソンは,科学を支える客観的データの神話を壊すとともに,これまで自明とされてきた他の知識体系に対して科学のもつ独自的特権性という考え方そのものにもくさびを打ち込んだ。それを受け継いだのがT.クーンでありP.K.ファイヤアーベントであった。クーンは《科学革命の構造》(1962)によって,科学の連続的な進歩の前提を覆し,科学それ自体のなかに内包される自律的発展機構の存在を否定することによって,〈内部史〉と〈外部史〉の区別を乗り越えるとともに,歴史記述法historiographyの問題にも重要な衝撃を与えた。ポッパーの立場も含めて,従来の科学史の記述法は,〈ホイッグ史観〉の名が当てはまるように,今日われわれが科学的真理とみなしているものを前提とし,過去の歴史のなかから今日の〈科学〉に至る筋道だけを追う形をとってきた。別の言い方をすれば,今日勝ち残った〈勝利者〉の勝利の記録を後づける〈後知恵〉の営みがそれである。この点をポッパーは,歴史の〈合理的再構成rational reconstruction〉と呼んで,事実の問題としてではなく,権利の問題として正当化しようと図った。もしこの立場をとれば,たとえばコペルニクスの〈地動説〉は今日のわれわれが地動説に与えている〈科学的〉根拠づけとはおよそ異なった根拠によってそれを真理とみなしている,という事実は捨象され,それが今日の科学的地動説として生き残っているという理由によってのみ,歴史的に評価されることになる。この点をクーンよりも鋭くついたのはファイヤアーベントだった。彼は《方法への挑戦》(1975)以降,こうした勝利者史観を徹底的に攻撃すると同時に,現在われわれのもつ科学の特権性をも否定する。同じような史観を説いたもう一人の象徴的存在は,本来美術史,もしくは文化史の出身であるF.A.イェーツであった。彼女は,ホイッグ史観に基づく歴史記述法への厳しい批判から,G.ブルーノ像の根本的変革を目ざした《ジョルダーノ・ブルーノとヘルメス主義の伝統》(1964)など一連の著作を残した。

 このような科学史の新しい波は,その論理を徹底すればするほど,科学史という概念自体の解体をさえ含意するほどになっている。なぜなら,現在のわれわれの定義しうる〈科学〉の歴史は,たかだかここ150年ばかりのものであって,そうした科学の定義に基づく限り,たとえばニュートンやガリレイの仕事は,とても〈科学〉とは呼べなくなる。ニュートンを科学者と呼ぶことは,じっさい根本的な時代錯誤であって,一見彼が〈科学者〉にみえるのは,われわれが,彼の知識体系のもつ神学的性格やその錬金術との有機的関係などのいっさいに目をつぶって,彼のなかに現在の科学の一部を,そしてそれだけをみてしまう結果なのである。それゆえ,もし科学史という理念が生き残りうるとすれば,それは〈科学の歴史〉としてではなく,〈知の歴史〉としてであろう。しかも,それは,単に現在の科学を過去に投影する,という営みではなく,いわば過去を〈現在〉としてつかもうとする営みであるという自覚をはっきりともったとき,優れて批判的な学問として成立することができると思われる。

日本の本格的な科学史研究は数学の領域から始まったとみてよい。それは一つには,和算という比較的輪郭も性格も明確な,しかも日本に独自といってよい知識体系が存在していたことにもよる。すでに遠藤利貞の《大日本数学史》などの仕事があったうえに,三上義夫のように当初から海外に発表の舞台を求めた数学史研究(《日本数学史》,D.E. スミスと共著)が花開いており,小倉金之助の一連の仕事も含めて,単に海外の学問の紹介ではなく,すでに,独自の内容をもつ研究が進められていた。また1910年代から科学啓蒙活動や科学論に対する関心が生まれ,啓蒙誌《現代之科学》が刊行(1913)されたり,田辺元の《科学概論》(1918)が現れ,22年のアインシュタインの来日によってこうした傾向は頂点を迎える。時代の展開とともにマルクス主義の分野からも強い科学への傾斜が生まれ,32年唯物論研究会の設立に伴い,岡邦雄,戸坂潤,三枝博音らの活躍は目覚ましかった。彼らの関心は当然ながら科学史(知識の歴史)にも向かった。36年岡の《科学思想史》,三枝の編による《日本哲学全書》などが現れ,本格的な科学史研究の草創期が到来した。こうした動向は,専門の科学者の間にも,科学史への興味を呼び覚ました。物理学の専門教育を受けた菅井準一,天野清,湯浅光朝,稲沼瑞穂らに,西洋史出身の平田寛などが加わって,日本科学史学会が発足したのは41年,同年岩波書店を媒介として機関誌《科学史研究》も刊行され,科学史研究は制度的な支持をいちおう受けることになった。初代会長は物理学者として令名の高かった桑木彧雄,2代は小倉,3代は三枝,さらに加茂儀一,湯浅,平田という形で会長が継承されてきた。この時期から第2次大戦後にかけて科学史研究を支えた人々としては,さらに下村寅太郎,矢島祐利,大矢真一,藪内清,八杉竜一らの名を挙げておくべきであろう。

 戦後,東京大学に教養学部教養学科が生まれるに当たって,科学史・科学哲学分科が設立され,日本の大学において,科学史教育・研究の正規の機関として最初の名乗りを挙げた。それには化学者として早くから科学史教育の必要性を説いていた玉虫文一らの尽力があった。その後同分科には大学院博士課程が併設され,その他の大学でも,実質上科学史を扱う講座を置くものが現れ,また講義題目として科学史を掲げる大学は現在ではきわめて多数にのぼっている。専門的な訓練を受けた研究者がこの分野でようやく活躍を始めているのが現況であり,そうした事態を生むのに功あった広重徹や青木靖三らの早世が惜しまれている。
科学
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「科学史」の意味・わかりやすい解説

科学史
かがくし
history of science

科学の発展の歴史において,個別科学での現象の発見・概念の成立・法則の確立の過程を,個々の研究者・研究者集団・学界について歴史的な事実関係を明確にし,論理的に跡づけ,あるいは個別科学または科学総体について,それらの社会的,経済的背景と政治経済への影響を論じ,また科学研究における有効な方法を過去の発展のなかから見出すなどの研究を行う学問分野。文化史の一部ともみられるが,客観性,普遍性,実証性をもつべき自然科学自体が研究対象の一部に含まれる点に特徴をもつ。科学史研究には種々の立場があり,たとえば物理学,天文学における G.ガリレイとローマ法王庁との確執,生物学における C.ダーウィンの進化論,地質学における斉一説などにみられる科学的精神の成立と勝利をたたえる啓蒙的な立場,N.コペルニクスから I.ニュートンにいたる力学の成立の歴史のなかに例証を求めて現代の科学の研究に有効な方法論を主張する立場,さらには人類の自然認識の発展過程を教訓として科学教育に生かそうとする立場などがあり,その目的により研究の対象・方法・論理に相違,特徴がある。最近は,中世の占星術・錬金術・不老不死の薬の研究などを単に擬科学とするのではなく,その意義を再評価し,また科学より生れた技術ないし科学の存在形態の一つである巨大科学に対し批判的な立場から,その社会的意義を歴史的に論じ,あるいは西欧諸国からみていわゆる科学的に後進とされている地域の科学研究の歴史や方法を追究するなど,新しい動きもある。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

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