知恵蔵 「山田哲人」の解説
山田哲人
小学生の時に宝塚リトルリーグで野球を始め、中学時代にはヤングリーグの兵庫伊丹に所属。08年4月に大阪の履正社高校へ進学し、高校3年の夏に大阪府予選を勝ち抜いて甲子園で行われた第92回全国高等学校野球選手権大会へ出場した。初戦の2回戦は天理高校(奈良)に4対1で勝利したが、続く3回戦では聖光学院(福島)相手に2対5で敗れている。なおこの試合では聖光学院のエース・歳内宏明(現・阪神タイガース)から、0対2と2点を追う6回にレフトスタンドへ同点となる2ランホームランを放った。高校通算本塁打は31本。高校時代は同じ履正社高校の5学年先輩に当たるT-岡田(現・オリックス・バファローズ)になぞらえて、T-山田と呼ばれることもあった。10年秋のドラフト会議でヤクルトから1位指名を受けて入団。プロ野球選手となる。
ルーキーイヤーの11年は、シーズン中に1軍での出場はかなわなかった。しかし中日ドラゴンズとの間で争われたクライマックスシリーズ(CS)では、第2戦で高校卒業新人野手としてはCS史上初となる先発出場を果たした。翌12年4月5日の阪神戦に代打出場して1軍でのシーズン公式戦にデビューし、その打席で榎田大樹からプロ初安打を記録。8月10日の読売ジャイアンツ戦では内海哲也から本塁打を放ち、プロ初ホームラン、初打点を記録した。プロ3年目の13年は、94試合に出場して打率.283、3本塁打、26打点、9盗塁の成績を収め、二塁手のレギュラーポジション獲得への足掛かりを作った。
4年目の14年は初めて開幕戦の先発メンバーに名を連ね、安打を次々と積み重ねていく。8月にはこの月リーグ1位の41安打を放って、自身初となる月間MVPに選ばれた。最終的に143試合に出場して打率.324、本塁打29、打点89、盗塁15の好成績をマーク。193本ものヒットを量産し、1950年に藤村富美男(阪神)が記録した191本を抜いて、シーズン日本人右打者最多安打記録を樹立した。
更に翌15年には自身初となる全試合フルイニング出場を果たし、打率.329、本塁打38、盗塁34でトリプルスリーを達成。打点は100を記録し、チームのリーグ優勝に大きく貢献した。トリプルスリーと100打点の同シーズン達成は、1950年の別当薫(毎日オリオンズ)と岩本義行(松竹ロビンス)以来となる65年ぶり3人目の快挙であった。また8月21日から22日にかけての中日戦で、プロ野球タイ記録となる史上19人目の4打数連続本塁打をマーク。ソフトバンクとの間で争われた日本シリーズは1勝4敗に終わって日本一には届かなかったものの、第3戦では日本シリーズ史上初となる1試合3打席連続ホームランを記録する活躍を見せた。
続く16年も開幕からフルイニング出場を続けていたが、7月30日の巨人戦で田原誠次から背中に死球を受ける。その後も試合に出ていたものの、8月9日の中日戦で1回の第1打席に立った後に背中の痛みを訴えて途中交代した。診断の結果は左第8肋骨骨挫傷で、翌10日に出場登録を抹消されている。これにより14年7月13日の横浜DeNAベイスターズ戦から続いていた連続フルイニング出場は、316試合でストップした。それでも8月24日の中日戦から1軍に復帰している。
(場野守泰 ライター/2016年)
出典 (株)朝日新聞出版発行「知恵蔵」知恵蔵について 情報