プロ野球選手(内野手:右投右打)、監督。8月14日、広島県生まれ。呉港(ごこう)中(現、呉港高)では1932年(昭和7)から1935年まで4年連続で夏の甲子園に出場し、1934年には優勝投手となった。卒業後、大阪タイガース(現、阪神タイガース)結成と同時に入団し、1936年から主力投手となるとともに、登板のないときには野手として出場するなど投打に活躍、秋季シーズン(1937~1938年は2シーズン制)には本塁打王を獲得した。その後、肩を壊し1938年の秋季からはほぼ野手に専念。翌1939年から1942年は兵役についたが、1943年に復帰、1944年以降は4番打者として定着した。1949年には持ち前の打力を発揮、「物干し竿(ざお)」とよばれた37インチ(約94センチメートル)という普通のものより10センチメートルも長いバットを使いこなし、ホームラン46本、142打点という当時の新記録で二冠王を獲得して最高殊勲選手(現、最優秀選手)に選ばれた。打率は惜しくも2位で三冠王は逃したが、翌1950年には首位打者に輝き、「ミスター・タイガース」の地位を不動のものとした。はでなスタンドプレーでファン沸かせる人気者でもあった。1946年、さらに1955年から1956年まで監督を兼任。1957年は監督専任となり、1958年に現役復帰したが同年限りで引退した。その背番号10は阪神の永久欠番。
[出村義和 2016年9月16日]
選手としての実働17年間の通算投手成績は、登板試合76、投球回345と3分の1、34勝11敗、防御率2.34、奪三振183、完投14、完封4。通算打者成績は、出場試合1558、安打1964、打率3割、本塁打224、打点1126。獲得したおもなタイトルは、首位打者1回、本塁打王3回、打点王5回、最高殊勲選手(現、最優秀選手)1回、ベストナイン6回。監督としての通算成績(4年)は、462試合、266勝190敗6分け、勝率5割8分3厘。1974年(昭和49)野球殿堂(野球殿堂博物館)入り。
[編集部 2016年9月16日]
『十乗院潤一著『ミスター・タイガース』(1992・データハウス)』▽『南萬満著『真虎伝――藤村富美男』(1996・新評論)』
昭和期のプロ野球選手
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
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出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
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