山野村(読み)やまのむら

日本歴史地名大系 「山野村」の解説

山野村
やまのむら

[現在地名]大口市山野

大口郷平出水ひらいずみ村の北にある。北は肥後球磨くま郡球磨村(現熊本県球磨村)・同国葦北あしきた大河内おおかわうち(現同県水俣市)羽月はつき川の上流域で、南東流する同川に西から小川内こがわち川・井立田いたちだ川、東から山野川が流れ込む。北東には十曾じゆうそ山脈が連なる。大口筋が南東大口郷小木原こぎはら村からうえを経て北西へ通り、同郷小川内村へ向かう。

和名抄」高山寺本記載の大隅国菱刈ひしかり郡出野郷を山野の誤記とする説があり(国郡沿革考)、これを当地にあてる説もある(鹿児島県史)。中世には牛屎うしくそ院司牛屎(のち太秦)氏の一族が当地に住して山野を名乗り(建武三年六月日「薩摩国御家人和泉杉道悟軍忠状」都城島津家文書など)、遅くとも文明年間(一四六九―八七)以前に南東部羽月川東岸に山野城が築かれた(文明六年「行脚僧雑録」旧記雑録)。天文(一五三二―五五)頃までに山野および山野城は菱刈氏の勢力下に入り、永禄一二年(一五六九)九月菱刈氏が島津氏に降伏したのち、島津氏領となった。近世には一村のみで伊佐郡山野郷を構成する。山野城麓に地頭仮屋が置かれた。

慶長一二年(一六〇七)には新納利兵衛尉に「山野村くつかけた」の中田一反余(分米一石余)など、計田畠五反余(分米五石余)の地が加増され(「新納為舟忠元加増坪付」旧記雑録)、同一四年に村田源之丞に宛行われた知行高三七石余のうちには、「上山野村」の「くつかた」「のり末」「あらた」「大つほ」「迫」「権現之下」の上・中・下田計二反余・分米三石余が含まれていた(「新納忠元坪付」村田文書)


山野村
やまのむら

[現在地名]福山市山野町山野

北山きたやま村の北に位置し、東は備中国、北・西は神石じんせき郡。村域はほぼ三角形状をなし、ほとんどが山地。村内に深く峡谷をなして東流する小田おだ川とその支流原谷はらたに川が下田原しもたばらで合し、上市かみいち下市しもいちの辺りで川谷平野は盆地状に発達している。河岸段丘上に畑地を開き、人家はこの川辺に沿って散在する。

弥生時代小田川をさかのぼり定着したもののようで、弥生土器や磨製石斧の出土地が川沿いに点在する。とくに下市・小迫こさごの河岸段丘の畑地に弥生土器の散布がみられ、付近一帯から石斧の包含もみられた。城山じようやまでは中に人骨を伴って箱式石棺が発見され、小砂こさごには「石ぐら塚」とよばれる横穴式石室がある。この石室は川石で築かれ、封土も小石混じりの土で、小田川の石材や砂を利用したとみられる。


山野村
やまのむら

[現在地名]稲築町山野

現稲築町の北西端に位置し、東は鴨生かもお村と赤坂あかさか(現庄内町)、西は平恒ひらつね村・南尾みなみお(現穂波町)。北東境を遠賀おんが川が流れる。応永七年(一四〇〇)一〇月二四日の沙弥玄千譲状(広崎文書/大分県史料八)によると、宇佐吉松氏が「山野別符吉松名田畠・屋敷等」を伝領している。文明二年(一四七〇)一〇月三日の宗国茂書下(馬廻御判物帳/長崎県史 史料編一)によれば「山野村小長カ跡五町・大一丸名三町」が当地の在地領主赤坂主計允に打渡されている。宇佐宮側は「山野別符内名一円御神領、俵左衛門允、貞国被官人宗山城守以下押妨」と状況を把握している(年月日未詳「少弐頼忠押領地僉議状案」到津文書/大分県史料一)。明応九年(一五〇〇)一二月に大内義興が「宇佐御神領筑前国山野・立岩・椿弁分三ケ所」の「雇夫・諸典役以下」を免除している(文亀二年三月七日「大内氏奉行人連署状写」同上)


山野村
さんやむら

[現在地名]川辺町山野

江川えかわ川の上流に広がる山村。西は江川村。南東に真妻まづま山がある。「続風土記」に「山野の義詳ならす、天正七年の文書に山野四川とあるは枝郷まてをすへていへるなり、今も普く然唱ふ、慶長検地の時は一村として枝郷なし、慶安中枝郷を分ちて三箇村とす」とあり、慶長検地高目録には山野村とみえ、高四〇七石余、小物成一・四四一石。

延宝六年(一六七八)の「日高鑑」では「山野四ケ村」として高四一九石余。山野四ヵ村の内訳は、山野畑越はたこし村が田畑一八町九反余、高一六八石余、家数四二、人数一八三、牛一四、馬八、鉄砲八、池二、山野三ッ野川みつのがわ村が田畑六町八反余、高四六石余、家数二三、人数八一、牛六、馬二、鉄砲六、山野大滝川おおたきがわ村が田畑一五町余、高四六石余、家数三九、人数一二九、牛九、鉄砲一二、猪内川いいちがわ村が田畑一〇町四反余、高九七石余、家数三二、人数九〇、牛一〇、馬五、鉄砲七で、それぞれ庄屋・年寄(大滝川村はなし)が置かれていた。


山野村
やまのむら

[現在地名]船橋市西船にしふな一―四丁目・山野町・海神かいじん五丁目

西海神村の北西に位置し、集落は台地北斜面のやや低い所から発達し、のちに房総往還沿いに拡大したと想定される。栗原くりはら八ヶ郷の内。寛文期(一六六一―七三)と推定される国絵図に山村とみえる。近世初期旗本成瀬領、のち栗原藩領となるが、寛永一五年(一六三八)の廃藩後は幕府領に転じたとされる。元禄一五年(一七〇二)の葛飾郡山野村検地帳写(青山家文書)によれば、田一五町八反余・高一〇九石余、畑二二町六反余・高一二八石余、屋敷一町二反余・高一二石余、屋敷筆数三一軒。


山野村
やまのむら

[現在地名]小川町山野

鎌田かまた川の左岸に位置し、東南は与沢よざわ村。寛永一二年(一六三五)の水戸領郷高帳先高に「山野村」とみえる。元禄郷帳には「古ハ山野、羽木上、星山三ケ村」と注記され、「水府志料」には「元禄十一年より合して山野一村となる。此村原野の間にあり。松林多し。故に山野とも名付しなるべし」とある。同書は戸数およそ五五とし、中世の屋敷跡を「曾根板山と云所に有。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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