日本歴史地名大系 「船橋市」の解説 船橋市ふなばしし 面積:八五・七一平方キロ(境界未定)県の北西部に位置し、東から南にかけては習志野市・八千代市、北から西にかけては印旛(いんば)郡白井(しろい)町・鎌ヶ谷市および市川市に接し、南西部は東京湾に臨む。市中央部を南東から北西に標高二〇―三〇メートルの下総台地が広がり、東京湾水系と印旛沼水系の分水嶺となっている。台地には多数の支谷が刻まれ、近代まで多くが谷津田であった。南部に小平野があり、近世の船橋宿は平野南部の砂洲上に発達した。海岸線は現代の埋立で、近世より四キロも沖に延びている。おもな道路は市南部を東西に国道一四号(千葉街道)・京葉道路・国道三五七号が貫き、東部を国道二九六号(成田道)、県道船橋―旭(あさひ)線(東金御成街道)、市中央を南北に主要地方道船橋―我孫子(あびこ)線が縦断し、北部を国道一六号、北西部を県道市川―印西(いんざい)線(木下道)が横切っている。鉄道は南部を東西にJR総武本線・同京葉線・京成本線、南北に新京成線・東武野田線・JR武蔵野線、西部を営団地下鉄東西線が通り、北端を北総開発鉄道が横切っている。市域は古代―近世は西部が下総国葛飾(かつしか)郡、東部が同国千葉郡に属した。〔原始・古代〕旧石器時代の遺跡には二和西(ふたわにし)の西(にし)ノ台(だい)遺跡、藤原(ふじわら)の法蓮寺山(ほうれんじやま)遺跡などがある。縄文時代早期の遺跡では前原西(まいはらにし)の佐倉道南(さくらみちみなみ)遺跡、日本で最初に炉穴跡の発掘調査が行われたことで知られる海神(かいじん)の飛(とび)ノ台(だい)貝塚などがあり、前期の遺跡には新高根(しんたかね)の古和田台(こわだだい)遺跡、芝山(しばやま)の飯山満東(はさまひがし)遺跡、夏見(なつみ)の八栄北(やさかえきた)遺跡、西ノ台遺跡などがある。縄文中期遺跡ではムラが全面発掘された西習志野の高根木戸(たかねきど)貝塚と、大穴南(おおあなみなみ)の海老(えび)ヶ作(さく)貝塚が代表的で、後期の遺跡では三二体に及ぶ人骨が出土した東船橋の宮本台(みやもとだい)遺跡、母子合葬骨など埋葬の墓域が発掘された古作(こさく)の古作貝塚などがある。弥生時代の遺跡では中期の法蓮寺山遺跡と、後期の方形周溝墓が検出された夏見大塚(なつみおおつか)遺跡が知られる。古墳時代の住居跡には西ノ台遺跡(前期)・夏見台(なつみだい)遺跡(中・後期)、小室(こむろ)町の小室遺跡(中・後期)、田喜野井(たきのい)の外原(そとはら)遺跡(中・後期)、八木が谷(やぎがや)町の柏上(かしあげ)遺跡(中期)、西船(にしふな)の印内台(いんないだい)遺跡(末期)などがある。印内台遺跡は奈良時代より平安時代にわたる遺跡であり、ほかに西船の本郷台(ほんごうだい)遺跡や夏見台遺跡もこの時期の遺構を含む。「三代実録」貞観五年(八六三)条などに意富比(おおひ)神の名がみえ、現在の船橋大神宮(意富比神社)の前身とされる。「延喜式」神名帳には葛飾郡内の同社のほか、千葉郡には二宮(にのみや)神社の前身という寒川(さむかわ)神社が記される。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「船橋市」の意味・わかりやすい解説 船橋〔市〕ふなばし 千葉県北西部,東京湾に臨む中核市。1889年町制。1937年船橋町が葛飾町と八栄村,法典村,塚田村の 3村と合体して市制。1953年二宮町,1954年豊富村を編入。江戸時代には千葉街道と成田街道の分岐点の宿場町として発達,成田山新勝寺の参拝客で繁栄した。かつてはノリ養殖で知られたが,第2次世界大戦後,京葉工業地域の一環として臨海部に埋立地を造成,中小企業工業団地や大企業の工場が進出。内陸部の高根台,習志野台,前原,金杉台などに大規模な住宅団地が建設され,人口も急増した。北東部は近郊農業地域で野菜の栽培が行なわれる。中山競馬場などがある。面積 85.62km2。人口 64万2907(2020)。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報 Sponserd by