日本歴史地名大系 「岡町領」の解説
岡町領
おかまちりよう
和歌山城下南東部、城下町続きの地であるが、支配は村方であった。
「続日本紀」神亀元年(七二四)一〇月条に聖武天皇の紀伊行幸の記事がみえるが、一二日条に「造離宮於岡東」とあり、また同書神護景雲三年(七六九)一一月二五日条に「名草郡片岡里」とみえ、この「岡」「片岡里」を当地一帯とする説もある。中世は雑賀庄に含まれ、雑賀一揆の一中心的地域として知られた。永禄五年(一五六二)七月吉日の湯河直春起請文(湯河家文書)に、雑賀一揆の五組のうち雑賀に「岡 三郎大夫殿」がみえる。天正五年(一五七七)六月二七日付の下間頼廉書状(念誓寺文書)にみえる「岡了順」は一揆の年寄衆の一人であるが、同一七年八月日付の岡了順田地屋敷置文(同文書)が残り、それによると岡の地にさほど大規模でない地所を有していたようである。「宇野主水日記」天正一三年三月二四日条には、豊臣秀吉による雑賀攻めの際「鷺森寺内・宇治・岡無別儀」とあり、大きな被害は免れたらしい。なお天正一七年の年号のある岡ノ宮(現刺田比古神社)の棟札には「岡村」と記されている。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報