岡部藩(読み)おかべはん

藩名・旧国名がわかる事典 「岡部藩」の解説

おかべはん【岡部藩】

江戸時代武蔵(むさし)国榛沢(はんざわ)郡岡部(現、埼玉県深谷市)に藩庁をおいた譜代(ふだい)藩。藩校は就将館(しゅうしょうかん)(のち偃武館(えんぶかん))、学聚館(がくしゅうかん)。1590年(天正(てんしょう)18)の徳川家康(とくがわいえやす)関東入国の際、譜代の家臣安部信勝(あべのぶかつ)は当地と下野(しもつけ)国内に合わせて5250石余を与えられた。その子信盛(のぶもり)は関ヶ原の戦い大坂の陣で軍功をあげ、1649年(慶安2)に大坂定番(じょうばん)にまで出世、1万9250石の所領となったことから、岡部藩を立藩した。以後明治維新まで13代続いた。領地三河(みかわ)国内や摂津(せっつ)国内にも分散し、石高は2万2250石にまでなった。最後の14代藩主安部 信発(のぶおき)は戊辰(ぼしん)戦争で新政府に帰順、1868年(明治1)に本拠を三河国半原(はんばら)藩に移すことを嘆願して許され、岡部藩は廃止となった。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「岡部藩」の意味・わかりやすい解説

岡部藩
おかべはん

武蔵(むさし)国榛沢(はんざわ)郡岡部(埼玉県深谷(ふかや)市岡部町)に藩庁を置いた譜代(ふだい)藩。1590年(天正18)徳川譜代の家臣安部信勝(あべのぶかつ)は同地および下野(しもつけ)(栃木県)梁田(やなだ)郡で5250石余を与えられたが、1636年(寛永13)三河(愛知県)八名(やな)郡に4000石を加増。1649年(慶安2)子信盛(のぶもり)が大番頭(おおばんがしら)から大坂定番(じょうばん)に昇進し摂津4郡内に1万石加増、計1万9250石余を領知し諸侯に列したのが藩の興り。以後信発(のぶおき)まで14代在封。その間加増分知を経て、2万2050石余が廃藩までの表高。5代信峯(のぶみね)の1705年(宝永2)三河半原(はんばら)(愛知県新城(しんしろ)市)から岡部に陣屋を移し、岡部陣屋を称す。8代信允(のぶちか)のとき、江戸藩邸に藩校就将館(しゅうしょうかん)と学聚館(がくしゅうかん)を開設、のち就将館を廃し偃武館(えんぶかん)を開く。1868年(明治1)14代信発は藩庁を三河半原に移し、半原藩となり、岡部藩は名目上廃止された。

大村 進]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「岡部藩」の意味・わかりやすい解説

岡部藩
おかべはん

江戸時代,武蔵国榛沢 (はんざわ) 郡岡部地方 (埼玉県) を領有した譜代小藩。天正 18 (1590) 年この地に采地 5000石を得た阿部氏の子孫信盛が,慶安2 (1649) 年1万 9000石となり立藩,明治1 (1868) 年三河 (愛知県) 半原に移されるまで存続。江戸城菊間詰。

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デジタル大辞泉プラス 「岡部藩」の解説

岡部藩

武蔵国、岡部(現:埼玉県深谷市)を本拠地とした譜代藩。藩祖は徳川家譜代家臣の安部信勝。

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