岩倉町
いわくらまち
尾高町の西に続く町人町。南裏を外堀を兼ねる加茂川が流れ、東端に天神橋、西端に中ノ棚橋が架かる。総間数一二八間余、東寄りに北へ入る涼善寺小路二三間半、西端立町との間を南北に通る中ノ棚小路二五間が分岐していた(明治二年「町々間数等書上」米子市史)。元禄八年(一六九五)の米子町中竈之覚(同書)では家持四〇軒・借家九四軒。文化元年(一八〇四)の下札に基づく生高五四石余、物成三二石余(同書)。町名は久米郡岩倉城下(現倉吉市)からの移住者に割当てられた地区であることによる。町禄は昆布など海産加工物・乾物を許され、立町境の中ノ棚は「なかんたな」ともよばれ、加茂川の幅を広くとって魚市が立てられた。灘町の魚市(魚鳥座)に次ぐ規模とされた。近世中期以後は木綿・鉄類・穀物・荒物などの商売のほか、鍛冶・大工職人の居住や料理店なども認められる。
岩倉町
いわくらちよう
[現在地名]中央区日本橋三丁目
箔屋町の南にある。通四丁目南から東へ抜ける街路の北側に位置する片側町。南は下槙町。楓川の入堀跡に立てられた町で、承応江戸絵図ではすでに当町域に相当する入堀の西半は埋立てられ、元禄六年(一六九三)の江戸図正方鑑に「イハクラ丁」と町名がみえる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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