日本歴史地名大系 「岩村城跡」の解説
岩村城跡
いわむらじようあと
岩村市街南方、標高七二一メートルの城山山頂にあり、岩村盆地の全貌が望め、東美濃一円が望見できる。かつては美濃・信濃・三河の接点に位置し、「西の大垣・東の岩村」といわれたほどの軍事・交通上の要衝であった。別名霧ヶ城といい、敵来襲の際、山頂の霧ヶ井に蛇骨を投入れると、たちまち霧が城を覆い、寄手を悩ませたとの伝えによる。大和
岩村城創業の祖は加藤次景廉といわれる。加藤氏は伊勢・伊豆両国に縁をもつ一族で、景廉は康治二年(一一四三)父景員と母工藤介家経の女との間に生れたという(美濃国諸家系譜)。治承四年(一一八〇)八月源頼朝は伊豆国に挙兵した。挙兵にあたり頼朝は、景廉を含む七人衆一人一人に言葉をかけている。また自ら父義朝秘蔵の長刀を景廉に与え、伊豆国目代山木判官兼隆の首を討てと命じた。これにこたえ、景廉は美事にこの大役を果した。以後も景廉は創業以来の股肱の臣として頼朝のため身命を賭している。景廉が美濃国
岩村城跡
いわむらじようあと
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報