岩村城跡(読み)いわむらじようあと

日本歴史地名大系 「岩村城跡」の解説

岩村城跡
いわむらじようあと

[現在地名]岩村町 城山

岩村市街南方、標高七二一メートルの城山山頂にあり、岩村盆地の全貌が望め、東美濃一円が望見できる。かつては美濃・信濃三河接点に位置し、「西の大垣・東の岩村」といわれたほどの軍事・交通上の要衝であった。別名霧ヶ城といい、敵来襲の際、山頂の霧ヶ井に蛇骨を投入れると、たちまち霧が城を覆い、寄手を悩ませたとの伝えによる。大和高取たかとり(現奈良県高市郡高取町)、備中松山まつやま(現岡山県高梁市)とともに日本三大山城といわれる。県指定史跡。また享保三年(一七一八)の城絵図と明和三年(一七六六)の平面図はいずれも県指定重要文化財(岩村町歴史資料館蔵)

岩村城創業の祖は加藤次景廉といわれる。加藤氏は伊勢・伊豆両国に縁をもつ一族で、景廉は康治二年(一一四三)父景員と母工藤介家経の女との間に生れたという(美濃国諸家系譜)。治承四年(一一八〇)八月源頼朝は伊豆国に挙兵した。挙兵にあたり頼朝は、景廉を含む七人衆一人一人に言葉をかけている。また自ら父義朝秘蔵の長刀を景廉に与え、伊豆国目代山木判官兼隆の首を討てと命じた。これにこたえ、景廉は美事にこの大役を果した。以後も景廉は創業以来の股肱の臣として頼朝のため身命を賭している。景廉が美濃国遠山とおやま庄の地頭職を得た年は不明だが、文治元年(一一八五)頃ではないかという説がある。「遠山由来記」などは、建久六年(一一九五)頼朝が南都東大寺供養のため上洛した際とする。建仁三年(一二〇三)比企の乱には景廉とともに長男景朝が出陣している。


岩村城跡
いわむらじようあと

[現在地名]南国市福船

岩村土居ともよばれる複郭式土居城。建武三年(一三三六)五月一日の佐伯経貞軍忠状(蠧簡集拾遺)に「岩村之城」とみえ、北朝方の攻撃を受けて焼払われたことがみえる。「香美郡誌」は城主を福田勘解由とする。また「南路志」は「古城記」を引いて「田所小次郎居之」とする。また予岳よがく(現香美郡土佐山田町)の文正元年(一四六六)八月二五日付薬師如来坐像胎内銘に「大旦那大仲臣道□奉行岩村式部」とあることから、当城の城主を岩村式部とする説もある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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