岩脇村(読み)いわわきむら

日本歴史地名大系 「岩脇村」の解説

岩脇村
いわわきむら

[現在地名]羽ノ浦町岩脇

古庄ふるしよう村の西にあり、南境を那賀川が東流する。対岸は南島みなみしま(現阿南市)。土佐街道が古庄村から入り、岩脇舟渡しで南島村へと通じていた。北西立江たつえ(現小松島市)へは羽ノ浦丘陵を越える阿千田あせんだ越が通る。慶長二年(一五九七)の分限帳によれば那東なとう郡として岩脇村がみえ、二〇〇石が倉地弥右衛門、九八石余が吉浦弥太郎の各知行分。だが当村は江戸初期から那西なさい郡に属しており、慶長期のものと推定される国絵図でも同郡分で、寛永一一年(一六三四)検地帳(羽ノ浦町教育委員会蔵)でも那西郡のうちとある。正保国絵図では高二九三石余。寛文四年(一六六四)の郷村高辻帳では田方八一石余・畠方二一一石余、芝山と注記される。その後一部が延宝六年(一六七八)成立の富田藩領となり、天和二年(一六八二)の富田藩領地方帳では同藩家臣に与えられた分として高一六石余、うち川成一石余、有高一五石余、物成七石余、請四ツ六分成、内麦三石余とある。同年の蔵入高村付帳では蔵入高八七石余。文化一〇年(一八一三)の高都帳では高一千四六石余。「阿波志」によれば土田は水陸田九三町二反余、高九八一石の一〇分の七が采地。


岩脇村
いおぎむら

[現在地名]近江町岩脇

天野あまの川を挟んで箕浦みのうら村の西南に位置し、南は西円寺さいえんじ村。中世には箕浦庄に含まれ、応永二二年(一四一五)三月二八日の今井大南藤吉田地売券(井戸村文書)に「箕浦庄之内西方岩ハキ」とみえる。なおこれによると当時はイワワキとよんでいる。当地を本拠とした岩脇氏は今井氏の一族で(佐々木南北諸士帳)、岩脇駿河入道は文明三年(一四七一)二月二八日米原山の合戦で討死(今井軍記)、岩脇市介(市助)も元亀三年(一五七二)閏正月一八日に丹生にゆう(現米原町)で討死している(「浅井長政感状」妙意物語)


岩脇村
いわわきむら

[現在地名]鷹巣町七日市なのかいち 岩脇

北流する小猿部おさるべ川中流域に位置する。天文年間(一五三二―五五)の浅利則頼侍分限帳(佐藤文書)に「御小姓 岩脇村住 岩脇小左衛門」とある。中世後期を通じ浅利氏領であったが、天正年間(一五七三―九二)中頃安東(秋田)氏に包摂された。天正一九年の出羽国秋田郡知行目録写(秋田家文書)に、品類しなるい村と合わせて一六九石六斗一合とある。

享保一五年(一七三〇)には戸数一七軒(六郡郡邑記)。寛政六年(一七九四)には当高一四二石六斗余で、すべて蔵分であった(六郡惣高村附帳)。文化一二年(一八一五)の「秋田風土記」には二三戸とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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