南島村(読み)みなみじまむら

日本歴史地名大系 「南島村」の解説

南島村
みなみじまむら

[現在地名]山鹿市南島

菊池川左岸の微高地に立地し、東はなかちよう村・長坂ながさこ村、南は牟田むた村・郷原ごうばる(現鹿本郡鹿央町)、西は志々岐しじき村と接する。西部豊前街道が東西に通り、六里の里数木があった。かつては梅雨時の洪水常襲地帯で、洪水時には海に浮かぶ島を連想させ、村名も関係するかと思われる。南北朝期以前から安楽寺領大路曲おおじまがり庄があり、字内曲うちまがりにその名をとどめる。「国誌」所載の菊池持朝の裏書がある永享六年(一四三四)一二月二一日の日輪禅寺建立次第によると、同寺の寺領に「山鹿南島村大蓑村」の一町があった。弘治二年(一五五六)五月二日、南島一二町は石貫いしぬき(現玉名市)二五町などとともに志岐氏に預け進められている(「菊池高鑑預ケ状」志岐文書)


南島村
みなみしまむら

[現在地名]旭区大宮おおみや一―四丁目・高殿たかどの四―六丁目

淀川左岸にある南北に細長い村で、西は江野えの村、南は京街道(東海道)を隔てて関目せきめ(現城東区)に接する。北部の集落内を東西方向に野崎のざき街道が通り、京街道から分岐して淀川堤防に至る長さ一二町・幅六尺の大宮おおみや(六尺道)が野崎街道と交差。慶長一〇年(一六〇五)の摂津国絵図には「南ノ島村」とみえる。


南島村
みなみしまむら

[現在地名]阿南市上中町かみなかちよう

おか村の北に位置し、北を那賀なか川が東流する。村内を南北に土佐街道が通り、那賀川対岸の岩脇いわわき(現羽ノ浦町)へは同街道の渡場があった。慶長期(一五九六―一六一五)のものと推定される国絵図に「南嶋」、寛永(一六二四―四四)前期のものと推定される国絵図に「南嶋村」とみえ、那西なさい郡に属する。正保国絵図では高一九八石余。寛文四年(一六六四)郷村高辻帳では田方三三石余・畠方一六四石余、旱損と注記される。天明六年(一七八六)の村々浦里男女人改帳(守野家文書)では男一六八・女一四四・僧二。


南島村
みなみじまむら

[現在地名]石井高川原たかがわら 南島

高川原村の西に位置し、西は大万だいまん村、南は重松しげまつ村、北は中島なかしま村。慶長二年(一五九七)の分限帳に村名がみえ、蜂須賀彦次郎が四八七石余、樋口内蔵助が一六四石余を知行。正保国絵図では高六五五石余。寛文四年(一六六四)の郷村高辻帳では田方三五石余・畠方六一九石余。慶安三年(一六五〇)の蜂須賀光隆領分高并当物成帳によれば、南島村新開の高九石余が蜂須賀光隆領(部屋住領)とされ、物成三石余・納枡四ツ一分八厘、内麦二石余。天和二年(一六八二)の蔵入高村付帳では蔵入高一石余。「阿波志」によると土田は中等、陸田一〇分の六・水田一〇分の四。


南島村
みなみじまむら

[現在地名]三根町大字天建寺てんけんじ字南島

寒水しようず川下流南岸の低地にあって開平江かいたいえ川が西を限る。弥生後期貝塚線に位置する。貞和六年(一三五〇)一〇月の板部成基安堵申状足利直冬外題安堵状(光浄寺文書)端裏書に「成基一紙之本坪付之也、自南島帰付□□也」とみえ、正保絵図に「南島村」とある。

佐賀藩の藩政期には、親村は蔵入地、枝村の石井いしい村は蔵入地と配分地とが入り交じっていた。


南島村
みなみしまむら

[現在地名]福田町南島

小島こじま村の西にある。正保郷帳に村名がみえ、幕府領。田方四四二石余・畑方二六石余、宗寿寺(現曹洞宗宗次寺)領二石。元禄一二年(一六九九)の青山忠重領知目録によると浜松藩領があり、同藩領分の変遷は下太しもふと村に同じ。元禄地方直し以降一部が旗本本多領となり幕末まで続く(国立史料館本元禄郷帳・旧高旧領取調帳など)


南嶋村
みなみじまむら

[現在地名]山南町大谷おおたに

篠山川の南岸、太田おおだ村の西にある。慶長三年(一五九八)織田信包(柏原藩)領となる。正保郷帳に村名がみえ田高五三石余・畠高五七石余、林・日損少しあり。柏原藩領。慶安三年(一六五〇)の同藩改易に伴い一時幕府領となるが、織田信包の四男信当への分与領は安堵されており(寛政重修諸家譜・徳川実紀)、国立史料館本元禄郷帳では幕府領と旗本織田領。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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