中屋敷村(読み)なかやしきむら

日本歴史地名大系 「中屋敷村」の解説

中屋敷村
なかやしきむら

[現在地名]上越市中屋敷・国府こくふ三丁目・谷愛宕たにあたご

大豆だいず新田村西方から南方にかけてを村域とし、上杉謙信の居城春日山かすがやま城のあった春日山一帯をも含む広大な村。江戸時代には門前もんぜん村・春日村・寺分てらぶん村も当村のうち。北国街道(高田開府以後は北陸街道)が通り春日山城下春日町の中心地域であった。現中屋敷のうち北の大豆と南の寺分に挟まれた地域の中心に小字御中屋敷おんなかやしきがあり、ここに謙信の館があったと伝える。広さ約二町歩、西から北側にかけ用水路がめぐっている。天正六年(一五七八)の御館の乱では、上杉景勝は春日山城に、景虎は御館おたてにたてこもり各地で戦闘が行われたが、七月には「春日中屋敷」で戦いがあり、そこで戦功をたてた垂水右近に七月一六日付で景虎から感状が与えられている(寸金雑録)


中屋敷村
なかやしきむら

[現在地名]鷹巣町中屋敷

北流して米代川に注ぐ小猿部おさるべ川中流域に沿う。正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に新田とあり、一三一石とみえるが、享保一四年(一七二九)の秋田郡御黒印吟味覚書(秋田県庁蔵)に「正保元禄誤新田出」とある。「六郡郡邑記」によれば、もと川向いにあったが、元禄九年(一六九六)川欠けのため枝郷藤木ふじき村に移り、村名を中屋敷に改めたという。戸数は享保一五年の「六郡郡邑記」、文化一二年(一八一五)の「秋田風土記」ともに二三軒。

延享四年(一七四七)から、七日市なのかいち村の坊川ぼうがわ沢の焼山やけやま沢から金山かなやま沢へ、月に屶一五丁ずつの薪入会をしたが、寛延二年(一七四九)長渡ながわたり沢・李木すももぎ沢へ一ヵ月屶二〇丁ずつの条件に変更、その対価として見継人足・御山守廻山・先達人足料として年四〇〇文を負担した(両村惣山年代記)


中屋敷村
なかやしきむら

[現在地名]芦北町高岡たかおか

宝暦年間(一七五一―六四)の記録(「万覚帳」芦北町誌)によれば、中屋敷村は飛松とびまつ村の上流約八町にあり、家数は三軒という。現在公称は失われているが、地元では小字の道明どうみよう辺りを中屋敷と通称する。湯浦ゆのうら川上流の農山村。寛永一六年(一六三九)の葦北郡地侍御知行割帳(徳富文書)に村名がある。湯浦手永に属し、延宝三年(一六七五)の葦北郡湯浦手永小村限御帳(芦北町誌)に中野屋敷村とあり、男女四五、うち女一七、一五歳から六〇歳までの男一四人のうちに二人の郡筒を含み、竈数六、馬一とある。


中屋敷村
なかやしきむら

[現在地名]川西町中屋敷

南の水口沢みなくちざわ村、北の木落きおとし村とはいずれも地所が入交じり、境は不分明。東は沖立おきだて村、西は仙田せんだ霧谷きりだに。「白川風土記」には永享年間(一四二九―四一)の開発の伝承を記す。天和三年郷帳では高二四六石九斗余。元禄七年(一六九四)の妻有組村名書上帳(福原氏蔵)によると、当村内に百姓が居住する宗正むねまさ村がみえる。


中屋敷村
なかやしきむら

[現在地名]塩川町五合ごごう

南屋敷みなみやしき村の北にあり、集落檜原ひばら峠越米沢街道(上街道)沿いに位置する。塩川組に属し、東は松崎まつざき新田村・上原うわはら新田村、西は金森かなもり村、北は常世とこよ村。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に中屋敷とみえ、高二三九石余。「新編会津風土記」によれば家数一四戸、駒形こまがた堰が北流し、常世村へと向かっている。


中屋敷村
なかやしきむら

[現在地名]長岡市下条げじよう

下条村の南端大石おおいし村の北端に挟まれた三角地帯に形成された小集落。南北三国街道(現国道一七号)が走る。元和四年(一六一八)の長岡藩知行目録に村名がみえ、高四二石八斗余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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