江戸中期の産科医。彦根の出身。本姓は三浦氏で母方の姓を継いだ。字は子玄。京都に出て一貫町に住み,古銅鉄器の古物商をしたり按摩鍼灸術で生計を立てながら,医学を修業した。その師承・学統は不明であるが,古医方派の医学を学んだものと思われる。薬物療法の及ばない難産に鉄鉤を用いる手術療法を導入して母体を救い,1765年(明和2)66歳のとき,それまでの多くの妊婦についての長年にわたる臨床研究をふまえた独創的な自説を皆川淇園が文章化した《子玄子産論》(単に《産論》ともいわれる)を刊行して日本近代産科学の基礎をきずいた。玄悦の業績として,按腹・触診による経験的・実証的観察から帰納した正常胎位(胎児が頭を下にし,背を前にむけて位置していること)の発見,手術的療法(回生術)の導入,産事習俗の旧弊打破(産婦が産後の一定期間跪座する風習があったが,疲労を増すばかりでよくないとしてこれを禁止し,また妊婦の腹帯も害があるとして廃止を訴えた)等がある。晩年に阿波徳島藩主に招かれ,養子玄迪(げんてき)(子啓)を推挙して代々藩医となった。玄迪には《産論翼》(1775)の著書がある。実子の玄吾(満郷)は別家して一家を立て,その第2代満定(蘭斎)は朝廷医となり女医博士に任ぜられている。賀川一門はつぎつぎと独創的研究を行い母子ともに救う助産の術を開拓,賀川流産科は明治に至るまで日本の産科の主流となった。
執筆者:宗田 一
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江戸中期の産科医。近江(おうみ)国(滋賀県)彦根(ひこね)の生まれ。字(あざな)は子玄。本姓は三浦といい、7歳のとき母方の姓を継いだ。ひそかに鍼灸(しんきゅう)術を学び、のち京都に出て、鍼灸、按摩(あんま)を業とするかたわら古医方を学んだ。たまたま一婦人の難産を鉄鉤(かぎ)を用いて救ったことから、助産のことは手術によらなければ全うすることができないと悟り、種々考案・工夫のすえ、ついに救護の術をいくつか案出し実施した。これによってその医名は大いにあがり、賀川流産科の名は一世を風靡(ふうび)したという。1766年(明和3)『産論』2巻を著し、産科に関する玄悦独自の見解を明らかにした。そこには前人が説かなかったところが多くみられる。1768年阿波(あわ)徳島藩蜂須賀(はちすか)氏に禄(ろく)100石で迎えられた。
女婿の玄迪(げんてき)(1739―1779)は、玄悦の隠退後その業を継ぎ、父の『産論』に増補改訂を加えるなど、賀川流産科の基礎を確立するのに貢献した。
[大鳥蘭三郎]
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…その門人本間棗軒(1804‐76)は,四肢の切断や陰茎切断などの困難な手術にも成功している。京都の産科医賀川玄悦は,胎児が子宮内で頭を下にした背面倒首していることを日本で初めて記載し,また異常分娩を救うために,種々の有効な措置を工夫したことでも知られている。この賀川の業績は,シーボルトによってヨーロッパに紹介されたほど独創的なものであるが,すでに日本にも入っていた,イギリスのスメリーWilliam Smellie(1697‐1763)の産科書に類似の工夫があることから,これからヒントを得たとも考えられる。…
※「賀川玄悦」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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