賀川玄悦(読み)カガワゲンエツ

デジタル大辞泉 「賀川玄悦」の意味・読み・例文・類語

かがわ‐げんえつ〔かがは‐〕【賀川玄悦】

[1700~1777]江戸中期の医師近江おうみの人。あざなは子玄。本姓三浦鍼灸術しんきゅうじゅつをよくしたが、難産を救ったことから助産術を独自に考案し、賀川流産科の祖となった。著「産論」など。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

精選版 日本国語大辞典 「賀川玄悦」の意味・読み・例文・類語

かがわ‐げんえつ【賀川玄悦】

  1. 江戸中期の産科医。名は光森。近江の人。鍼灸(しんきゅう)術をよくし、独学で産科を修得して、賀川流産科の名を高めた。主著「産論」など。元祿一三~安永六年(一七〇〇‐七七

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「賀川玄悦」の意味・わかりやすい解説

賀川玄悦 (かがわげんえつ)
生没年:1700-77(元禄13-安永6)

江戸中期の産科医。彦根出身。本姓は三浦氏で母方の姓を継いだ。字は子玄。京都に出て一貫町に住み,古銅鉄器の古物商をしたり按摩鍼灸術で生計を立てながら,医学を修業した。その師承・学統は不明であるが,古医方派の医学を学んだものと思われる。薬物療法の及ばない難産に鉄鉤を用いる手術療法を導入して母体を救い,1765年(明和2)66歳のとき,それまでの多くの妊婦についての長年にわたる臨床研究をふまえた独創的な自説皆川淇園が文章化した《子玄子産論》(単に《産論》ともいわれる)を刊行して日本近代産科学の基礎をきずいた。玄悦の業績として,按腹・触診による経験的・実証的観察から帰納した正常胎位(胎児が頭を下にし,背を前にむけて位置していること)の発見,手術的療法(回生術)の導入,産事習俗の旧弊打破(産婦が産後の一定期間跪座する風習があったが,疲労を増すばかりでよくないとしてこれを禁止し,また妊婦の腹帯も害があるとして廃止を訴えた)等がある。晩年に阿波徳島藩主に招かれ,養子玄迪(げんてき)(子啓)を推挙して代々藩医となった。玄迪には《産論翼》(1775)の著書がある。実子の玄吾(満郷)は別家して一家を立て,その第2代満定(蘭斎)は朝廷医となり女医博士に任ぜられている。賀川一門はつぎつぎと独創的研究を行い母子ともに救う助産の術を開拓,賀川流産科は明治に至るまで日本の産科の主流となった。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「賀川玄悦」の意味・わかりやすい解説

賀川玄悦
かがわげんえつ
(1700―1777)

江戸中期の産科医。近江(おうみ)国(滋賀県)彦根(ひこね)の生まれ。字(あざな)は子玄。本姓は三浦といい、7歳のとき母方の姓を継いだ。ひそかに鍼灸(しんきゅう)術を学び、のち京都に出て、鍼灸、按摩(あんま)を業とするかたわら古医方を学んだ。たまたま一婦人の難産を鉄鉤(かぎ)を用いて救ったことから、助産のことは手術によらなければ全うすることができないと悟り、種々考案・工夫のすえ、ついに救護の術をいくつか案出し実施した。これによってその医名は大いにあがり、賀川流産科の名は一世を風靡(ふうび)したという。1766年(明和3)『産論』2巻を著し、産科に関する玄悦独自の見解を明らかにした。そこには前人が説かなかったところが多くみられる。1768年阿波(あわ)徳島藩蜂須賀(はちすか)氏に禄(ろく)100石で迎えられた。

 女婿の玄迪(げんてき)(1739―1779)は、玄悦の隠退後その業を継ぎ、父の『産論』に増補改訂を加えるなど、賀川流産科の基礎を確立するのに貢献した。

[大鳥蘭三郎]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「賀川玄悦」の意味・わかりやすい解説

賀川玄悦
かがわげんえつ

[生]元禄13(1700).彦根
[没]安永6(1777).9.14. 京都
江戸時代中期の産科医。字は子玄。主著『産論』。彦根藩士の庶子として生れ,母姓を継いだが早く両親を失い,中年に近く京に出てあん摩を業とした。隣家の婦人の難産にちょうちん柄の鉤を使って母子を助けてから,従来から行われていた薬石以外の助産法を考案するにいたり,創始した産科術を晩年に『産論』にまとめた。この書は儒者,皆川淇園の助力によったといわれる。また,名声が高くなったために,明和5 (1768) 年,蜂須賀侯の侍医に召された。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「賀川玄悦」の解説

賀川玄悦 かがわ-げんえつ

1700-1777 江戸時代中期の医師。
元禄(げんろく)13年生まれ。京都で鍼灸(しんきゅう)などを業とするかたわら,古医方をまなぶ。独自に開発した手術法で胎児をとりだし,難産の母体をすくった。明和5年阿波(あわ)徳島藩医となる。安永6年9月14日死去。78歳。近江(おうみ)(滋賀県)出身。本姓は三浦。名は別に光森。字(あざな)は子玄。著作に「子玄子産論」「産科図説」など。
【格言など】天地(あめつち)のめぐみにかなふわが道はつとめて人をすくひ給へや(辞世)

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

百科事典マイペディア 「賀川玄悦」の意味・わかりやすい解説

賀川玄悦【かがわげんえつ】

江戸時代の産科医。字は子玄。本姓は三浦。彦根藩士の家に生まれたが,母の実家を継いで医術を学び,京都に出て鉗子分娩(かんしぶんべん)をはじめ助産術に多くの手技を創案,賀川流産科の祖となった。著書《産論》(1766年)では胎児の正常位置が倒立であることを確認している。
→関連項目産科

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

世界大百科事典(旧版)内の賀川玄悦の言及

【医学】より

…その門人本間棗軒(1804‐76)は,四肢の切断や陰茎切断などの困難な手術にも成功している。京都の産科医賀川玄悦は,胎児が子宮内で頭を下にした背面倒首していることを日本で初めて記載し,また異常分娩を救うために,種々の有効な措置を工夫したことでも知られている。この賀川の業績は,シーボルトによってヨーロッパに紹介されたほど独創的なものであるが,すでに日本にも入っていた,イギリスのスメリーWilliam Smellie(1697‐1763)の産科書に類似の工夫があることから,これからヒントを得たとも考えられる。…

※「賀川玄悦」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

ベートーベンの「第九」

「歓喜の歌」の合唱で知られ、聴力をほぼ失ったベートーベンが晩年に完成させた最後の交響曲。第4楽章にある合唱は人生の苦悩と喜び、全人類の兄弟愛をたたえたシラーの詩が基で欧州連合(EU)の歌にも指定され...

ベートーベンの「第九」の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android