峯城跡(読み)みねじようあと

日本歴史地名大系 「峯城跡」の解説

峯城跡
みねじようあと

[現在地名]亀山市川崎町 森・殿町

もり集落の北東側、標高七〇メートルほどの南北に細長い丘陵尾根にある。元弘年間(一三三一―三四)関政実は川崎かわさき村に居城を構え、峯氏を称した。関氏の一族で、実治(盛忠)の五男という(亀山録)。以後、峯氏は戦国期の末に至るまで、中勢の長野氏と拮抗を重ねながら(伊勢峯軍記)、関五家の一として城邑を維持した。現在の殿町とのまちという字名は峯城の所在に由来するものと思われる。

永禄一一年(一五六八)織田信長の伊勢攻略以後峯氏は神戸(織田)信孝に従ったが、天正二年(一五七四)峯八郎四郎が信長の長島一揆攻伐に加わって戦死し、弟与八郎が継いだが断絶


峯城跡
みねがじようあと

[現在地名]西京区御陵峰ヶ堂付近

天文三年(一五三四)細川晴元の奉行人茨木長隆が、山城守護代木沢長政に下した次の奉書(東寺百合文書)に「峯城」と出る。

<資料は省略されています>

当時の西岡において「峯」は峯の堂すなわち法華山寺をさすことから考え、大永七年(一五二七)戦火で焼けた同寺跡に築かれた城郭と推定される。同年一〇月一一日の長政の折紙(同文書)に「為峯城米、西岡中脈寺庵諸本所社領等之事」とあり、山城守護細川氏が西岡の半済により徴発した米を峯城にあつめさせ、この地域の拠点としたことがわかる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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