殿町(読み)とのまち

日本歴史地名大系 「殿町」の解説

殿町
とのまち

[現在地名]松江市殿町

松江城の東に南北に延びる侍町。東の母衣ほろ町、松江城の西の内中原うちなかばら町とともに内山下うちさんげと称され、上級家臣の屋敷地が多い。南は京橋きようばし川を挟んで末次本すえつぐほん町・片原かたはら町、北はきた堀を挟んで北堀きたほり町に接する。末次本町とを結ぶ京橋は長さ九間二尺七寸・幅三間(雲陽大数録)。堀尾時代城下図によると、松江城の内堀に沿って二千石以上の家臣の屋敷が並び、北堀橋南の堀尾采女は石高四千石で鉄砲五〇人を付けられ(「堀尾忠晴給帳」円成寺文書)堀尾忠晴又従兄弟にあたる。


殿町
とのまち

[現在地名]八幡町殿町

城の西方に位置し、東はやなぎ町、西は職人しよくにん町・鍛冶屋かじや町・ほん町。慶長五年(一六〇〇)の八幡城合戦を記した合戦図(延宝二年写、大分県臼杵市立図書館蔵)には侍町とみえる。馬場うまば町ともいった(郡上郡史)。寛文年間(一六六一―七三)町絵図に「トノマチ」とみえ、天ノ洞川(現初音谷)左岸の矢場入口から吉田よしだ川沿いの神路山かんじやま北通さかな町までが殿町の通りとなっており、東西両側に三〇軒の侍屋敷がみられる。


殿町
とのまち

[現在地名]結城市結城 の町

おお町の東から結城城大手口へ向かってまっすぐに延びた道路沿いに発達した町。南は南殿町。かつては侍屋敷が立並んでいたことをうかがわせる。文禄年間(一五九二―九六)結城秀康によって建設されたと想定される。「結城御代記」所収の結城城下絵図によると、町域東の字茶薗原ちやえんばら一帯は「茶ノ木原殿町」とよばれ、秀康の時代には、この辺りを含む結城城大手口前までが侍町であったのであろう。慶長六年(一六〇一)秀康が越前へ転封し、家臣もこれに従ったため、その跡地に町人たちが住むようになったようである。

元禄四年(一六九一)の結城町町中間数・家数・屋敷町歩書上帳(赤荻和弥文書)によれば地子免除地で、町中間数は二町三六間。


殿町
とのまち

[現在地名]金沢市大手町おおてまち尾張町おわりちよう一丁目

明治四年(一八七一)頃の町立てで、梅本うめもと町・大手町の北側に並行する通りに沿う。町のなかほどを中町筋が横断、東は東内総構堀に架かる稲荷いなり橋、西は博労ばくろう町に限られる。江戸時代には武家地で、天保町絵図では加賀藩人持組の松平監物・前田式部・成瀬主税・奥野主馬助・富田織部の上屋敷や平士の屋敷地となっていた。町名もこのような大身の武士が多く住していたことにちなむものであろうか。


殿町
とのまち

[現在地名]松阪市殿町

近世松坂城下の行政機能を代表する町で、明治一六年(一八八三)の「飯高郡松坂地誌」(松阪市立図書館蔵)に「元標ヨリ坤ノ方ニアリ、人家ノ在地ニシテ、西・北ノ二面ハ本郡内五曲リ村ニ隣リシ、南ハ本郡大黒田村ニ接シ、東ハ字新町・新坐町及魚町等ニ界交ユ、東西四百間、南北五百七十間、但シ旧字代官小路合シテ本称ニ改ム」とみえる。松ヶ島城下に当町があったことが、明暦三年(一六五七)二月二一日付の松ケ島村検地帳写(田中満生氏蔵)の地字名でわかる。


殿町
とのまち

[現在地名]津和野町後田うしろだ

なかの原の亀井氏藩邸の北方、津和野大橋から惣門までの南北道沿いの家中屋敷町。町名は寛永二年(一六二五)まで坂崎氏・亀井氏の居館(藩邸)があったことに由来。同年の殿町からの大火で藩邸が焼失、中の原に移され、跡地は家老・中老などの重臣屋敷となった。北端に惣門を設け、惣門より内を城内と称し、その北に連なる町人町とへだてていた。元禄期城下侍屋敷等絵図(津和野町郷土館蔵)では、大橋から惣門石垣までの道の長さ一〇九間。


殿町
とのまち

[現在地名]桑名市殿町

三崎みさき通の南にあり、東西一条の町屋敷地。町の東北角より西側に町奉行舟奉行の役宅および藩士屋敷があったため、町民が尊称して殿町とよぶようになった。後に町屋敷地となる。「慶長自記」(「桑名市史」補篇所収)には慶長九年(一六〇四)「七月五日大ジケ堤通半損(中略)新開堤ハ皆切レ高汐サシ殿町中ホリ町中汐入」とあり、すでに殿町の町名がみられる。しかし元禄家帳(「桑名市史」所収)には「慈源寺前二軒」とあり、殿町の名はみえないので、当時はまだ町屋敷地でなかったと思われる。


殿町
とのまち

[現在地名]長岡市殿町一―三丁目・あさひ町一―二丁目

長岡城の城郭の南部を東西に走っている町で、その中ほどに南遥なんよう園という藩主の屋敷があり、そこに有隣ゆうりん亭と称する別邸があったので名付けられた。もともと家中屋敷町であったが、長岡藩主九代牧野忠精は文化五年(一八〇八)この地に藩黌崇徳そうとく館を創設し、文政六年(一八二三)にその東隣に有隣亭を建て、公暇に藩老山本老迂斎・高野余慶・秋山景山などを伴って時々ここに遊んだという。


殿町
とのまち

[現在地名]松任市殿町

古城ふるしろ町の東、東新ひがししん町の北に位置。天明五年(一七八五)の町絵図(松任市立博物館蔵)では該当地域に百姓家が数軒描かれているが、町名は記されていない。町名は旧松任城大手門口にあたり、武家屋敷地であったことによるという(松任町史)


殿町
とのまち

[現在地名]中津市中津 殿町

片端かたは町の南にある東西に約四町続く上級武家町で、東はきよう町、西は中津川(高瀬川)に沿う土居に突当る。


殿町
とのまち

[現在地名]加賀市大聖寺殿町だいしようじとのまち

番場ばんば町の北西に続く武家町。天明六年(一七八六)大聖寺絵図では大聖寺町の北西端で、東側は有力な上級武士の屋敷、西側は下級の足軽屋敷となっている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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