下道郡(読み)かどうぐん

日本歴史地名大系 「下道郡」の解説

下道郡
かどうぐん

和名抄」東急本(国郡部)刊本は「之毛豆美知」と訓ずる。近代の訓は「カドウ」(内務省地理局編纂「地名索引」)。古代の郡域は高梁たかはし川の中・下流の西岸部とその支流である成羽なりわ川・新本しんぽん川・小田おだ川の流域からなり、東は南から窪屋くぼや郡・賀陽郡、北は英賀あが(阿賀)郡・哲多てつた郡、西は備後国、南は西から後月しつき郡・小田郡、南は浅口あさくち郡に接した。現在の吉備郡真備まび町、川上かわかみ郡川上町・備中町・成羽町高梁市と総社市の高梁川左岸、小田郡美星びせい町の一部を含む地域にあたる。「和名抄」刊本・東急本は穂北ほいた(高山寺本は穂太)八田やた迩磨にま曾能その秦原はたはら水内みのち釧代くしろ近似ちかのり成羽なしは弟翳穴田あなだ湯野ゆの河辺かわべ呉妹くれせ田上たかみの一五郷をあげており、令制の区分では上郡にあたる。なお高山寺本は水内・田上の二郷を欠く。式内社には石畳いわだたみみわ麻佐岐まさき横田よこた穴門山あなとやまの五社がある。「拾芥抄」に河上かわかみ郡が載り、当郡北部にあたる近似・成羽・弟翳・穴田・湯野の諸郷が中世に分郡されたことを示す。

当郡の中心地域は新本川・小田川の流域である。同地域には弥生後期の墳丘墓である黒宮大塚くろみやおおつか遺跡(真備町)立坂たてさか墳丘墓・伊与部山いよべやま墳墓群(総社市)、弥生中・後期の集落跡の西山にしやま遺跡(真備町)があり、銅鐸も出土した。古代吉備の最盛期にあたる四、五世紀には、砂子山さごやま古墳(総社市)天狗山てんぐやま古墳(真備町)なども営まれているが、一〇〇メートルを超える大古墳はまったくなく、当時の大首長の本拠であった形跡はない。だが六世紀代に入ると、外形こそ径四五メートルほどの造出しつき円墳であるが、全長一九・一メートルの巨大横穴式石室をもつ箭田大塚やたおおつか古墳(真備町)が突如として出現する。その後七世紀前半期には、全国的にも数少ない飛鳥時代創建の秦原はだわら廃寺(総社市)、箭田廃寺(真備町)が造営され、続く白鳳時代には両廃寺のほかに岡田おかだ廃寺・八高やたか廃寺(真備町)の四寺院が存在し、かつての時期の備中地域に特徴的な吉備寺式瓦の分布の中心的地位を占めている。このことは、六世紀代以降に当郡域に有力豪族の本拠が置かれていたことを物語っている。なお長砂ながさこ二号墳(総社市)は終末期の古墳で、播磨産の竜山石を用いた横口式石棺が特徴的である。

〔古代〕

郡域内に本拠をもったと推定される豪族は吉備一族の下道氏と苑(薗)氏である。「古事記」孝霊天皇段に、孝霊天皇の皇子の若日子建吉備津日子命の子孫として吉備下道臣をあげており、「日本書紀」応神天皇二二年九月一〇日条には、御友別の長子の稲速別が下道臣の始祖で川嶋県を、御友別の兄の浦凝別が苑臣の始祖で苑県を、それぞれ応神天皇から封じられたとある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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