川代村(読み)かわだいむら

日本歴史地名大系 「川代村」の解説

川代村
かわだいむら

[現在地名]羽黒町川代

月山の北麓、ささ川の上流にあり、北は国見くにみ村、北西大口おおぐち村。北流する笹川沿いに、上流から上川代・中川代・下川代の三集落があり、上川代は東岸、中・下の川代は西岸に位置する。中川代と下川代には、上川代の曹洞宗地蔵院の檀家が多く、また近世には川代村の小名として扱われており(弍郡詳記など)、上川代が当村の本村とみられる。天文二三年(一五五四)六月の白髭大洪水で亡村になったと伝えられる。その後慶長三年(一五九八)上杉景勝の部将大浦おおら(現鶴岡市)城代下次右衛門が、当村山守七郎左衛門の先祖掃部に「かうたい村四十年以来家たへ申候所を、今度取たてへき由、三年休ニ相定、田畠共ニおこさせ申候」との一札を与え、また同一七年最上義光の代官原美濃が「川代之内五拾年以来荒申候所、家三ツ相立候。諸役之儀三年之間用捨可申者也」との下川代御免状を同じく掃部に与えていることながら(「当国奉行所黒印」添川区有文書)、慶長三年頃から徐々に再建がなされたと考えられる。

元和八年(一六二二)庄内藩領となり、同年の酒井氏知行目録では河代村とみえ、高七六石余。


川代村
かわしろむら

[現在地名]鴨川市川代

太尾ふとお村の西、加茂かも川中流域の南岸に位置する。天正六年(一五七八)八月一日の玄音愁状写(宝珠院文書)宝珠ほうじゆ(現三芳村)末寺として「河代」とみえる。この「河代」は当地勝福しようふく寺のこと。慶長二年(一五九七)の安房国検地高目録では高五二九石余(うち田方三八二石余)、里見氏直轄領。同一一年の里見家分限帳では勝福寺領一〇石余・善春房領二二石のほかは里見氏給人領。寛永一〇年(一六三三)の関東真言宗新義本末寺帳では勝福寺に川城と注記されている。寛永年間旗本石川領となる。正保郷帳では高四七七石余、うち田方三二八石余・畑方一四八石余、石川領で、ほかに勝福寺領一〇石があった。慶安四年(一六五一)石川氏の伊勢国への領知替により旗本久永領となったとみられ、さらに元禄一一年(一六九八)に久永氏の三河国への領知替により旗本本多領となり、幕末に至る(「寛政重修諸家譜」・元文村高帳、明治七年「一村限調帳」川代区有文書など)


川代村
かわだいむら

[現在地名]むつ市関根 川代

出戸でど川の河口左岸に位置し、津軽海峡に沿う。北西に烏沢からすざわ村、南に関根せきね村がある。正保四年(一六四七)の南部領内総絵図に川代村八石余とあり、同年の郷村帳によれば八・一六九石のうち七・一八七石が田であった。天和二年(一六八二)の惣御代官所中高村付に南関根村・北関根村・烏沢村がみえるが、当村はみえない。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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