羽黒町(読み)はぐろまち

日本歴史地名大系 「羽黒町」の解説

羽黒町
はぐろまち

[現在地名]横手市上内かみうち町・羽黒町

朝倉あさくら山南麓を西流し、中ノ橋のたもとで横手川に注ぐ千手せんじゆ沢(清水しみず沢)の南側、通称上内町(武家屋敷地)のうち嶋崎しまざきを除き羽黒と総称した。慶長七年(一六〇二)以降、搦手城代(寛文一二年廃止)向氏の支配与下くみした・足軽の居住町。文政二年(一八一九)以後、家老の支配に属する御政務所支配となる(横手古今大番帳目録)。東は愛宕あたご山、西は横手川、北は千手沢を隔てて上根岸かみねぎし町。

寛文九年(一六六九)横手絵図面(横手郷土史資料)に、漆原町小路うるしはらまちこうじ(明治一四年の「郡区町村一覧」の野御扶持のごふち町で現上内町)一二戸、その北に羽黒御足軽町はぐろおあしがるまち小路(やま手新てしん町で現上内町)二二戸、これに平行してその西にも羽黒御足軽町(沼田ぬまた町で現上内町)一一戸、その西に平行して羽黒御免町はぐろごめんまち小路(御免町で現上内町)三〇戸、羽黒御足軽町(山ノ手新町)の北に羽黒小路(羽黒上はぐろかみ町・なか町・すえ町で現上内町・羽黒町)五五戸、羽黒小路(上丁)の西に平行して羽黒新町小路(羽黒新町で現上内町)一一戸、羽黒新町の北で横手川河畔の羽黒御免御足軽町小路(羽黒新町のうち通称川端町、現羽黒町)一五戸がみえる。


羽黒町
はぐろまち

面積:一〇八・二六平方キロ

郡の中央に位置し、北は藤島ふじしま町、西は鶴岡市、南西は櫛引くしびき町、南は朝日あさひ村・西村山郡西川にしかわ町、東は立川たちかわ町に接する。南東にそびえる月山(一九七九・五メートル)北麓の山岳・丘陵地帯、その山地の水を集めて流れる藤島川(笹川)今野こんの川がつくりだした扇状地、同扇状地扇端から広がる庄内平野と、北西―南東に細長い町域は多彩な地形を含む。羽黒山の西に広がる泥流台地北西端の高寺たかでら遺跡は庄内では数少ない旧石器時代の遺跡で、同じく台地端の手向とうげごうはまJ遺跡は縄文時代前期末から中期初頭の遺跡。ささ川扇状地扇頂部に位置する玉川たまがわ遺跡は縄文時代中期から晩期にかけての遺跡で、B地点からは勾玉など硬玉類が出土、またC地点では晩期の埋甕群・竪穴住居跡が検出された。


羽黒町
はぐろまち

[現在地名]村上市羽黒町

臥牛がぎゆう山の西方に位置し、家並は東南から三町二二間ほど西北に延びる。町の両端にそれぞれ枡形が設けられ、南東隅の枡形は神納かんのう(現岩船郡神林村)方面、北西隅の枡形は岩船町への往還路の山居さんきよ前道を守る。文禄(一五九二―九六)頃の瀬波郡絵図に「大国但馬分しり引村 上」がみえ、本納一九九石七斗六升四合・縄高三二三石七斗五升八合五勺、家二九軒とある。山居山北を西へ向かう道沿いに家が並び、北端村上町との間に社が描かれている。この「しり引村」が当町の前身にあたるか。その後は「新田町」とよばれた(元禄元年「口上之覚」羽黒神社文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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