川内郷
かわうちごう
近世矢島藩八郷の一つで、笹子川・鳥海川の下流および両川の合流地点一帯を含み、沿岸低地と数段を数える河岸段丘からなる。宝暦八年(一七五八)の御領分覚書(山懐の村)によれば、下河内村・牛越村・上河内村・小川村・伏見村の五ヵ村に分れ、
<資料は省略されています>
とある。笹子・直根二郷に比し、新田高が一〇パーセントと高く、とくに牛越村・小川村・下河内村は高い新田率を示す。上田が少なく、稲の品種として「てんひやうと申稲」が多く作られた(御領分覚書)。明治初年の田畑の面積は、田二一八町五段三畝二〇歩、畑九一町四段九畝二七歩で、畑が多く、灌漑用水を得ることが難しかった。
川内郷
かわちごう
「和名抄」東急本・高山寺本ともに訓を欠く。「日本地理志料」は「加不知」と訓を付す。郡の西北三ノ岳・二ノ岳の西、有明海沿いに遺称地河内(現飽託郡河内町)があり、旧芳野村分を併せた現河内町一帯に比定される。
川内郷
こうちごう
「和名抄」所載の郷。高山寺本・東急本ともに訓はみえない。「播磨国風土記」に河内里がみえる。現加西市河内町が遺称地で、郷域は同地から南流する普光寺川流域から現滝野町南部にわたり、加古川を東の限りとする地域とされる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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