伏見村(読み)ふしみむら

日本歴史地名大系 「伏見村」の解説

伏見村
ふしみむら

[現在地名]清水町伏見

新宿しんしゆく村の南西黄瀬きせ川の東岸に位置する。東海道が通り、南西は八幡やはた村。集落は古くは黄瀬川沿いの元伏見もとふしみにあったが、東海道箱根はこね(三島路)の付替え・整備が進められたため、慶長七年(一六〇二)往還に沿った現在地に移ったという。村内には鯛荷宿や朝鮮通信使の通詞宿があり、三島宿の補完的な役割を担っていた(小野家文書など)。文明一二年(一四八〇)六月、太田道灌上洛の途上、当地に立寄り、「夜をこめておきにけらしな呉竹のなひくふしミのけさの白露」という歌を詠んでいる(平安紀行)


伏見村
ふしみむら

[現在地名]古川市大崎おおさき 伏見

渋井しぶい川に沿う水田地帯にあり、玉造たまつくり郡南端にある。東は新田にいだ夜烏よがらす、西は名生みよう村・志田郡斎下さいげ村、北は成田なりた村、南は志田郡保柳ほやなぎ村・同郡荒田目あらたのめ村に接する。「安永風土記」に西隣の名生村と深いつながりがあり、斯波(大崎)家兼が築いた名生城本丸も半分は名生村、半分は伏見村に属するとある。

伏見廃寺は奈良から平安時代にかけての寺院跡であったと推定され、玉造柵とも推定される名生村の名生館遺跡との関係が注目される。


伏見村
ふしみむら

[現在地名]御嵩町伏見

しん村の東、西流する可児川右岸にある。集落は台地上にあって三方に耕地が開け、北部は丘陵地。中央を東西に中山道が通る。慶長七年(一六〇二)の駄賃定(野呂文書)に「伏見」とみえる。中山道の宿を勤めた。慶長郷帳では高六二九石余、元和二年(一六一六)の村高領知改帳では尾張藩(幕末に至る)正保郷帳によれば田四〇九石余・畑二二〇石余、ほかに新開田一石余・新開畑二五石余。小物成として山年貢二石余を納める。明暦覚書によれば概高六五五石余・新田概高一五石余。人数四六七、馬四三。


伏見村
ふしみむら

[現在地名]鳥海村伏見

鳥海川・笹子じねご川の合流点に近く、鳥海川の左岸一帯を占め、北は下河内しもかわうち村、南は上河内かみかわうち村に接する。笹子郷に向かう最上もがみ街道と直根ひたね郷に通ずる直根街道の分岐点を中心に、街道沿いに集落が発達する。

慶長一七年(一六一二)の由利郡中慶長年中比見出検地(由利郡中世史考)に村名があり、正保三年(一六四六)の出羽国油利郡之内知行高帳(秋田県庁蔵)に五二石一斗二升四合とあり、そのうち畑は四斗九升二合で「水損有 漆ノ木 雑木有 新田有リ」と記される。


伏見村
ふしみむら

[現在地名]珠洲市三崎町伏見みさきまちふしみ

小泊こどまり村の北にあり、北をの川が東流し、海に注ぐ。同川はもと伏見川と称した。中世は正院しよういん郷の内で、文和元年(一三五二)三月一一日の高座宮本経田田数注文(須須神社文書)に「伏見村内 壱段神主名、弐段善阿弥、弐段名主中、壱段毛須南坊」とみえ、隣接する方上かたかみ保の高座たかくら宮本経田六段が当村内に散在していた。応安五年(一三七二)当地は吉見氏に宛行われるが、以後の推移は蟹浦かにうらと同様。


伏見村
ふしみむら

[現在地名]御所市大字伏見

金剛山東麓に位置。北は西北窪にしきたくぼ村。慶長郷帳では御所藩(桑山元晴)領。村高一六〇・〇七石。寛永六年(一六二九)幕府領、同一六年郡山藩(郭住、本多勝行)領、延宝七年(一六七九)再び幕府領。文化郷帳には伏見村(村高一六五・〇八五石)朝妻あさづま村伏見方(村高一〇三・五一八石)と高分した記載がみえるが、天保郷帳では伏見村(村高一六五・〇八五石)のみで、朝妻村伏見方はみえないが、旧高旧領取調帳伏見方ふしみかた(村高一〇三・五一八石)がみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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