普光寺(読み)ふこうじ

日本歴史地名大系 「普光寺」の解説

普光寺
ふこうじ

[現在地名]大和町浦佐

浦佐うらさ集落の西山麓にある。真言宗豊山派、吉祥山と号し、本尊大日如来。古くより境内にある毘沙門堂で知られる。毘沙門堂は天王堂・多聞堂とも称し、普光寺が別当寺を勤めた。本尊は多聞天王。承久三年(一二二一)一〇月三日の天王堂事務職補任状(普光寺文書)では、地頭平繁基より僧道乗房弁覚に対して「浦佐村天王堂」領の「東限寺田際 西限高山頂 南限形太沢 北限黒沢」の四至内を永代禁断殺生の地と定め、その寺務を勤めるよう命じている。高山たかやまは浦佐の西方現北魚沼郡堀之内ほりのうち町境の高山であろう。天王堂領は、元亨二年(一三二二)一一月一〇日の某下文(同文書)によると、天王堂神田として「後家名内」「孫太郎控」「樋渡」の合計一町が普光寺の所管するところであった。永和四年(一三七八)八月一日には国上こくじよう(現西蒲原郡分水町)金蔵より七四貫一〇〇文、この石高八石三斗二升の施入があった(同年月日「国上寺金蔵寄進状」同文書)。永徳二年(一三八二)一一月一三日の藤原清信等八名連署寄進状(同文書)によれば、天王堂造営料として「浦佐保南方内田」二〇〇苅の地が寄進された。


普光寺
ふこうじ

[現在地名]峰町吉田

集落北側の山腹にある。宝珠山と号し、曹洞宗。本尊は釈迦如来。文永一一年(一二七四)モンゴル襲来に際して当地で討死したという峰郡司宗盛家(甲斐六郎)菩提寺と伝える(津島紀事)。応永一六年(一四〇九)宗貞茂が当時退転して「無縁所之御体」になっていた「朽木村内普光寺」に寺地を寄進し、島主宗家の祈祷所としており(同年八月七日「宗貞茂寄進状」三根郷給人等判物写など、以下断りのない限り同判物写)、その山内の四至は「東限権現山峯脇、西限夷社上峯脇、南限山麓、北限寺上横峯」であった(同年八月二四日宗貞茂寄進状)。永享六年(一四三四)にも四至が確認され(同年一〇月二三日宗貞盛書下)、享徳二年(一四五三)新たにみね郡内の「埋木之梶木畠」が当住分として寄進された(同年四月五日宗成職寄進状)


普光寺
ふこうじ

[現在地名]朝地町上尾塚 普光寺

大野川北岸の山腹にある。筑紫山と号し、高野山真言宗。本尊は大日如来。「豊後国志」は敏達朝に日羅が創建したとするがつまびらかでない。弘長三年(一二六三)七月二日の尼深妙等連署譲状案(志賀文書)によれば、志賀しが村内の近地ちかじ名地頭職と筑紫尾ちくしお寺が大友能直の孫で志賀泰朝の弟にあたる帥房禅季に譲与された。この筑紫尾寺が当寺の前身とされる。筑紫尾寺はもともとは近地名地頭職とともに泰朝に譲られていたが、その強い要望により禅季分の朝倉あさくら名と交換されて禅季へと譲られた。


普光寺
ふこうじ

[現在地名]大牟田市今山

三池山中腹にある。宇今山と号し、天台宗。本尊は千手観音。寺伝では弘仁一四年(八二三)三池氏の祖三毛中納言師親の創建というが(「三池氏系図」筑後将士軍談、「南筑明覧」など)、正確なことはわからない。本堂に安置される木造薬師如来坐像(県指定文化財)は台座部分が鎌倉時代後期の補修とされているものの本体部分には平安時代末期の藤原様式の特色が認められるという。また正長二年(一四二九)八月二〇日の造像銘をもつ木造慈覚大師坐像(県指定文化財)の存在から、山門派の寺院であったことがわかる。


普光寺
ふこうじ

[現在地名]寄居町赤浜

東流する吉野よしの川北岸に位置する。大悲山瑠璃光院と号し、天台宗。本尊は薬師如来。開山についての由来は不明であるが、江戸寛永寺末で、門徒寺一四を有する在地の有力寺院であった。この一四ヵ寺が連判した貞享三年(一六八六)の普光寺門徒連判証状(普光寺文書)には「武州塚田村普光寺」とみえ、現赤浜あかはま地内の字塚田つかだに所在する。寛文年間(一六六一―七三)頃、住持伝海が比企郡中爪なかつめ村普光寺(現小川町)へ隠居しないままに移住し、当寺を無住兼帯として留守居を置いた。伝海は死後も中爪に葬られ、当寺も荒廃した時期があった。貞享三年中爪との間に争論が起こったが、当寺の言い分は通らなかったようである(以上「普光寺後住出入訴状」同文書、前掲証状、「普光寺縁起」小川町普光寺蔵)


普光寺
ふこうじ

[現在地名]小川町中爪

薬王山瑠璃光院と号し、天台宗。明和九年(一七七二)の薬王山瑠璃光院普光寺縁起(埼玉叢書)によれば、当寺は正保二年(一六四五)中爪なかつめ村などの領主であった旗本高木正則が徳川家康追善のため、家康の御影を勧請して建立した寺で、正則が帰依した同村毘沙門堂の尊慶を住持としたという。しかし、開山には尊慶の師である塚田つかだ(現寄居町)普光寺尊栄を仰ぎ、寺号も同寺と同じくし、塚田村普光寺の末寺となったと伝える。


普光寺
ふこうじ

[現在地名]三水村大字普光寺字堰下

浄土宗、性空山と号し、本尊阿弥陀如来。

口碑によれば、正暦元年(九九〇)僧性空の創立という。天台宗で村一円を領し、よって寺号を村名とするという。


普光寺
ふこうじ

[現在地名]世羅町井折

井折いおり本郷ほんごうとの境の普光寺山山麓にあり、臨済宗仏通寺派。浄林山と号し、本尊阿弥陀如来。寺伝によれば宝徳元年(一四四九)六月、毛利義勝が常持仏を本尊とし、鏡庵道明を開祖に請じて創建したという。のち焼失したが、天室周光が再興、法嗣松覚全祖のとき安芸国吉田よしだ(現高田郡吉田町)の佐伯六郎兵衛が本尊・脇侍を施入、その後衰退したが、享和二年(一八〇二)に一山道止が再興。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

デジタル大辞泉プラス 「普光寺」の解説

普光寺

福岡県大牟田市、三池山の中腹に位置する天台宗の寺院。山号は宇今山、本尊は千手観世音菩薩。境内にある樹齢400年を超えるといわれる臥龍梅(県天然記念物)が有名。

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