布津村(読み)ふつむら

日本歴史地名大系 「布津村」の解説

布津村
ふつむら

[現在地名]布津町貝崎名かいざきみよう大崎名おおさきみよう坂下名さかしたみよう

現布津町域を村域とする。東部は大崎名で大崎鼻が海に延びており、南に貝崎名があり、北西部に坂下名が広がる。坂下名に鉄滓が検出された木場原こばばる遺跡があり、カナクソ山が残る。また同所には潮入崎しおいりざき古墳や横穴式石室をもった円墳のあま古墳がある。貝崎名には前方後円墳の丸山まるやま古墳があり、中世には貝崎城が築かれている。フロイス「日本史」によれば、豊臣秀吉によるバテレン追放令の後ながら一五八八年(天正一六年)には有馬晴信の領知であったフツにも修道士がとどまるようになり、クリスマスの前には日本人修道士を伴った神父が説教にきて、三会みえ(現島原市)と布津で四〇〇人もの受洗があったという。また一五九〇年一二月には三三二人がキリシタンになったと記される。北方の深江ふかえ川原こうら(現深江町)から坂下名の平之坂ひらのさか飯野いいの、大崎名の中通なかどおり、および貝崎名を経て堂崎どうざき(現有家町)に抜ける殿様とのさま道があり、大崎名では石畳が残り、輿立場と称される地もある。

江戸時代は島原藩領の南目筋に属する。慶長国絵図に「布津」とみえ、高一千石余。慶長一七年(一六一二)の岡本大八事件のあと、日向国あがた(現宮崎県延岡市)へ転封となった有馬直純にはキリシタン武士の随行が許されなかったため、貝崎城の有馬一族有馬大右衛門は布津大右衛門(代右衛門とも)と改めて庄屋になったとされる。大崎名のみやもと共同墓地にあるキリシタン墓碑群(県指定史跡)は半円頭寝棺型と扁平蓋石型が各三基、庵型・丸庵型は各一基で、半円頭寝棺型墓碑には干十字紋を彫込んだものがあり、背面の穴は信徒が十字架を立てたものと推定されている。江戸幕府の禁令下で布教が弾圧され、迫害を受けながらも継続されていることを証明するために日本イエズス会管区長マテウス・デ・コウロスが徴収した元和三年(一六一七)のイエズス会管区長宛のキリシタン連判書付に「布津村」の「長橋新八郎見ける」「同助左衛門とめい」「田中はう路」「河崎内蔵助はひあん」「田中大蔵はうろ」らキリシタンの代表者五人の署名がみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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