帝国大学令(読み)ていこくだいがくれい

大学事典 「帝国大学令」の解説

帝国大学令
ていこくだいがくれい

1886年(明治19)3月に勅令第3号として公布。全14条からなり,第1条で「帝国大学ハ国家ノ須要ニ応スル学術技芸ヲ教授シ及其蘊奥ヲ攷究スルヲ以テ目的トス」と規定した。組織構成として大学院および分科大学を置き,分科大学は法科医科工科文科理科(1890年,農科を加える)から構成され,各分科大学に分科大学長・教頭・教授・助教授・舎監・書記を任命しその職務を行わせ,総長勅任官として帝国大学全体を総轄し,その下に評議官・書記官・書記を置くことを定めた。各分科大学の修業年限は3年(医科は4年),大学院の攷究期間は2年以内と定められた。1893年に大規模な部分改正が行われ,講座制や教授会の設置が定められた。さらに大学令の公布に伴い1919年(大正8)に全面的な改正が行われ,分科大学制から学部制へと移行した。1947年(昭和22)9月に国立総合大学令に改題,49年5月に国立大学設置法により廃止された。
著者: 橋本鉱市

出典 平凡社「大学事典」大学事典について 情報

旺文社日本史事典 三訂版 「帝国大学令」の解説

帝国大学令
ていこくだいがくれい

1886年,文部大臣森有礼 (ありのり) により制定された学校令の一つ
これにより帝国大学は「国家ノ須要ニ応ズル学術技芸ヲ教授シ及其薀奥 (うんのう) ヲ攻究スル」という国家主義的目的を明確にし,また東京大学を帝国大学と改称('97年東京帝国大学)。1893年改正され大学自治の体制がいちおう成立した。

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世界大百科事典(旧版)内の帝国大学令の言及

【学校令】より

…狭義には,1886年(明治19)3月諸種の学校を総合規定していた教育令が廃止され,同年3~4月に公布された帝国大学令,師範学校令,小学校令,中学校令,諸学校通則の5単行勅令をさす。広義には,それ以降1947年3月学校教育法により再び大学から幼稚園までの諸学校が総合規定されるまでの間に公布された,学校種別単行勅令の総称。…

【帝国大学】より

…日本の帝国大学制度は,1880年代に入って,憲法の制定作業に入った伊藤博文(当時,参議)らによって構想された。プロイセン・ドイツやオーストリアの国法学者たちから大学の国家経営が重要であることを学んできた伊藤は,85年内閣を組織するとともに,初代文相森有礼とはかって,帝国を代表する政府直轄の大学の設立に入り,翌86年帝国大学令を制定した。それは分科大学と大学院から成る総合大学で,〈国家ノ須要ニ応スル〉(帝国大学令1条)専門教育と学術研究を進める機関とされ,学位審査権も与えられた。…

※「帝国大学令」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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