帰化城(読み)きかじょう(その他表記)Guī huà chéng

改訂新版 世界大百科事典 「帰化城」の意味・わかりやすい解説

帰化城 (きかじょう)
Guī huà chéng

中国,内モンゴル自治区の区都フフホト(呼和浩特)の旧名。この地は遼・金・元代(10~14世紀)に豊州と呼ばれ,明末の16世紀20年代から内モンゴル族のトウメット(土黙特)部長アルタン・ハーンが駐牧してからモンゴル名のフフホト(青い城の意)で知られるようになった。1570年(隆慶4)明朝との和議が成り,アルタン・ハーンが明朝から順義王に封ぜられた際,その居城に対して帰化城の名を贈られた。以来フフホトは帰化城の名で知られ,内モンゴルの政治・経済・文化の中心となった。清の1739年(乾隆4)帰化城の北東4kmに綏遠城を築いたので,これを新城旧来の帰化城を旧城と呼び,新旧両城区を併せて帰化綏遠庁が置かれた。1912年(民国1)庁を改めて県とし,ついで帰綏県と改められた。1929年からは綏遠省と称された。1937-45年の抗日戦争の間,日本軍の占領下で厚和特別市と改名されたが,解放後の1954年本来の名称たるフフホト(呼和浩特)が復活した。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「帰化城」の意味・わかりやすい解説

帰化城
きかじょう
Gui-hua-cheng; Kuei-hua-ch'êrg

中国,内モンゴル自治区の首都フフホト (呼和浩特) の古称。 1565年,トゥメットのアルタン (俺答)のもとに亡命した漢人の白蓮教徒らにより建設され,モンゴル人によってフフホト (青い都) と名づけられたが,71年講和成立後,明により帰化城と命名された。 1628年,チャハル (察哈爾) 部リンダン (林丹)の手に落ち,のち清が占領。清代に近くに綏遠城がおかれ,合併して帰綏と呼ばれた。 1937~39年,モンゴル連合自治政府の首都となり,厚和と改名された。

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旺文社世界史事典 三訂版 「帰化城」の解説

帰化城
きかじょう

中国内モンゴル自治区の区都フフホトの明代の呼称
旧城は16世紀にモンゴル−タタール部のアルタン=ハンが漢人を集めて築城した。新城は清代に築かれ,綏遠 (すいえん) 城と呼ばれた。現在では両方を合わせて帰綏 (コイソイ) と呼ぶ。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「帰化城」の意味・わかりやすい解説

帰化城
きかじょう

フフホト

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「帰化城」の解説

帰化城(きかじょう)

フフホト

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世界大百科事典(旧版)内の帰化城の言及

【フフホト】より

…人口92万(1995)。16世紀中ごろ,この地にモンゴル人が建設した集落をフフホト(青い城)と呼んだが,明代末中国の支配下に入り,〈漢族に帰属し教化される〉という意味で〈帰化城〉と名づけられた。さらに清代,その北東3kmに新城が建設され,〈綏靖遠方〉(遠い地を治める)からこれを〈綏遠(すいえん)〉と称した。…

※「帰化城」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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