日本歴史地名大系 「平城京内遺跡」の解説
平城京内遺跡
へいじようきようないいせき
〔左京一条三坊十五坪・十六坪〕
この地域の遺構は平安時代のものもあるが、奈良時代についてはその中葉以降の建物が造営されておらず、空閑地となっていた。このことから「懐風藻」に佐保の宅を形成したことがみえ、藤原氏の陰謀に屈して天平元年(七二九)に没した長屋王の宅地ではなかったかと推定する説もある。もっとも佐保周辺には長屋王のみならず大伴一族なども住んでいたから、この説もなお断案とはいいがたいが、同宅地が当時一級の貴族の所有にかかるものであったことは間違いなさそうである。
〔東三坊大路跡〕
法華寺町(通称法華寺北町)にあたる。一条の南半部分について南北二四〇メートルにわたって大路とその東側溝とを発掘している。この東側溝からは、土器・瓦・・土馬・木簡などが見付かっているが、その大半は平安時代初め(九―一〇世紀)のものであって、当時までこの三坊大路が大和から山城へ抜ける道路として使用されていたことを物語っている。木簡では、大路近くに立てられたと思われる告知札が四点見付かっている。また銅銭は一三八枚出土したが、それらは和同開珎以下の皇朝十二銭のうち最後の乾元大宝を除く一一種類を含んでいた。また墨書土器には「隅寺」「新殿」などと記したものがあった。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報