中国、東晋(とうしん)の王羲之(おうぎし)(307―365)が書いたと伝える法帖(ほうじょう)。内容は、中国、三国時代魏(ぎ)の夏侯玄(かこうげん)が、戦国時代の将軍楽毅について、その王道にのっとった戦いぶりを説いた文章。古来、王羲之の書いたものが名高く、南朝梁(りょう)時代に、すでに真本か模本かが論じられ、隋(ずい)の智永(ちえい)はこれを王羲之の正書の第一と称した。今日、梁模本の系統を受けた元祐秘閣(げんゆうひかく)本、余清斎帖(よせいさいじょう)本、越州石氏(えっしゅうせきし)本などの法帖が伝わるが、その書風や、後記の有無などに異同をみるため、真偽についての結論は出ていない。
日本では、正倉院宝物の光明(こうみょう)皇后の臨模本が有名である。これは、「東大寺献物帳(とうだいじけんもつちょう)」(国家珍宝帳)に「楽毅論一巻、白麻紙(はくまし)、瑪瑙(めのう)軸、紫紙褾(ひょう)、綺帯(きたい)、右皇太后御書」と掲げるものにあたる。表紙に貼(は)られた題簽(だいせん)には「楽毅論 紫微中台(しびちゅうだい)御書」(皇后宮御書)と書かれ、さらに巻末の別紙に、本文と同筆で「天平(てんぴょう)十六年(744)十月三日 藤三娘(とうさんじょう)」(藤原氏の第三女)とあり、光明(こうみょう)皇后(701―760)44歳の筆と知られる。白麻紙3帳を継ぎ、紙背よりへらのようなもので界を引いた縦簾紙(じゅうれんし)とよばれる紙を使用。中国より舶載された王羲之の法帖を臨書したもので、筆力が強く、格調の高い筆致を示している。この光明皇后の「楽毅論」は、わが国奈良時代の書が、中国の王羲之尊重の風潮をそのままに受け継ぐものであったことを、よく物語っている。
[久保木彰一]
中国,三国魏の夏侯玄(209-254,字は太初)の作った文章。内容は戦国時代の燕の将軍楽毅が斉と戦い,莒(きよ)と即墨の2城だけ攻略しなかったことで,世の誤解を受けているので,これを弁護し,その志が遠大なことを訴えたもの。東晋の王羲之が子の王献之に書き与えた細楷の書跡が,古来彼の正書第一とされる。その書風を唐の孫過庭は〈楽毅を写せば情,怫鬱(ふつうつ)(心がふさぐこと)多し〉(《書譜》)という。正倉院の光明皇后臨書の書跡は,よくこの気分を存している。
執筆者:田上 恵一
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中国三国時代の魏(ぎ)の夏侯玄(かこうげん)が著した文章。戦国時代燕(えん)の武将楽毅が斉と戦い,70余城を陥れながら莒(きょ)と即墨(そくぼく)の2城を攻略せずに世の誤解をうけたので,その真意をのべ楽毅を弁護した。正倉院には,光明皇后が東晋の王羲之(おうぎし)の筆になった楽毅論を手本にして書いたものが伝わる。末尾に「天平十六年(744)十月三日 藤三娘」と書かれ,皇后44歳の筆とわかる。藤三娘は藤原不比等(ふひと)の三女という意の自称。「東大寺献物帳」所載品。本紙縦25.3cm,横84cm。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
…それよりも,唐初に王羲之の行書を拾い集めて碑に刻した《集王聖教序》の方が信用できる。草書としては,尺牘二十数種を集めた《十七帖》,楷書としては,《楽毅論(がくきろん)》《黄庭経(こうていけい)》《孝女曹娥碑(こうじよそうがのひ)》《東方朔画賛(とうぼうさくがさん)》などの細楷が法帖として伝わっている。そのうち《楽毅論》は,光明皇后の臨摹したものが正倉院に残っており,これによって逆推すると,一字一字を非常に技巧をこらして書いたものであったようである。…
※「楽毅論」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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