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長屋王 ながやおう

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

長屋王
ながやおう

[生]天武4(675)/天武12(683).大和,飛鳥
[没]天平1(729).2.12. 奈良
天武天皇の孫。父は高市皇子。母は天智天皇の女御名部皇女という伝承もあるが確かではない。妃は草壁皇子の娘吉備内親王。ほかに藤原不比等の娘もめとっている。和銅2 (709) 年宮内卿,翌和銅3 (710) 年式部卿,養老2 (718) 年大納言,養老5 (721) 年右大臣となり,勢力を拡大。

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デジタル大辞泉の解説

ながや‐おう〔‐ワウ〕【長屋王】

[684~729]奈良前期の政治家。天武天皇の孫。高市皇子の子。聖武天皇のもとで左大臣となり、藤原氏を抑えて皇親政治を推進したが、讒言(ざんげん)により、自殺に追い込まれた。

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百科事典マイペディアの解説

長屋王【ながやおう】

天武天皇の孫,高市(たけち)皇子の子。藤原不比等(ふひと)死後の721年右大臣,724年聖武天皇即位とともに左大臣に進み,藤原氏に対抗する勢力をなした。729年謀叛(むほん)があると密告され,妻子とともに自殺(長屋王の変)。
→関連項目藤原武智麻呂

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

長屋王 ながやおう

684-729 飛鳥(あすか)-奈良時代,高市(たけちの)皇子の第1王子。
天武天皇13年生まれ。天武天皇の孫。宮内卿(くないきょう),式部卿,大納言,右大臣,左大臣などを歴任。養老7年三世一身の法を施行し,律令制の維持をはかる。神亀(じんき)6年漆部君足(ぬりべの-きみたり)らに謀反をくわだてていると密告され,同年2月12日自害した。46歳。和歌が「万葉集」に5首,漢詩が「懐風藻」にのこる。
【格言など】宇治間山(うぢまやま)朝風寒し旅にして衣貸すべき妹もあらなくに(「万葉集」)

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朝日日本歴史人物事典の解説

長屋王

没年:天平1.2.12(729.3.16)
生年:生年不詳
奈良時代の王族官人。天武天皇の孫。高市皇子の子。母は天智天皇の娘御名部皇女とみられる。妻は吉備内親王,石川夫人,安倍大刀自など。慶雲1(704)年,無位から正四位へ昇進し,以後宮内卿,式部卿,大納言を歴任。藤原不比等没後の養老5(721)年右大臣,神亀1(724)年2月,聖武天皇が即位すると正二位左大臣となり,王族政治家として政界を主導するとともに,有力な皇位継承候補者でもあったとみられる。聖武が母藤原宮子の称号を大夫人とする勅を出したことに対し,同年3月,大宝令では「皇太夫人」とあるべきで,勅と令のいずれをとるべきかと奏言した結果,聖武は勅を撤回し,書くときは皇太夫人,いうときは大御祖とすると改めた。同6年2月,国家を傾けようとしていると密告され,糺問を受け自尽。吉備内親王および子の膳夫王,桑田王,葛木王,鉤取王らも自殺(長屋王の変)。夫妻は生駒山に葬られた。この事件は,光明子を聖武の皇后にしようとした藤原氏による企てとみられている。時に46歳とする所伝と54歳説とがある。和銅5(712)年文武天皇の死を悼み,また神亀5年父母,天皇などのため,それぞれ大般若経600巻を書写させた。 その宅は佐保の地にあり,佐保宅,作宝楼などと称され,しばしば宴が催され,王自身のものも含めそこで詠まれた多くの漢詩が『懐風藻』にみえる。また『万葉集』にも王の歌が収められている。『唐大和上東征伝』によると,唐の鑑真が日本への渡来を決意したのは,王が仏法を崇敬し,1000の袈裟を作り唐僧に施したことに感じたためという。近年奈良市内の平城京左京三条二坊に当たる地のうちの4坪(古代の土地区画)分,約6万m2を占める邸宅跡から「長屋親王宮鮑 大 贄十編」と記す木簡をはじめ,約3万6000点の木簡が出土し,そこに王邸があったことが判明した。木簡には吉備内親王,石川夫人,安倍大刀自などの王の妻をはじめとする王の一族の名が多くみえる。また写経にかかわる書法模人,書写人,帙師や医者,僧尼のほかに,鍛冶,鋳物師,画師などの技術者や帳内(親王,内親王に与えられる従者),少子らの従者,山背御田,耳梨御田,大庭御薗,都祁氷室などの所領の存在がわかった。ただし佐保宅とこの邸宅跡の異同については議論がある。奈良県平群町に長屋王夫妻の墓と伝える2基の円墳がある。<参考文献>奈良国立文化財研究所編『平城京長屋王邸宅と木簡』

(館野和己)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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防府市歴史用語集の解説

長屋王

 天皇の一族で、720年には大臣になりますが、729年に反乱を起こすと密告され、自殺に追い込まれてしまいます。なお、長屋王の邸宅跡からは多くの木簡[もっかん]が見つかっています。

出典|ほうふWeb歴史館
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世界大百科事典 第2版の解説

ながやおう【長屋王】

684‐729(天武13‐天平1)
奈良時代前期の皇親政治家。天武天皇の孫,高市皇子の第1子。母は天智天皇皇女の御名部皇女であるという。鈴鹿王の兄。《続日本紀》の伝によると吉備内親王(元明天皇と草壁皇子の子)との間に膳夫王,桑田王,葛木王,鉤取王がおり,同書天平宝字7年(763)10月丙戌条の藤原弟貞伝によると,藤原不比等の女某との間に安宿(あすかべ)王,黄文(きぶみ)王,山背王(藤原弟貞),教勝がいた。そのほか賀茂女王円方女王も王の女である。

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大辞林 第三版の解説

ながやおう【長屋王】

684~729) 奈良時代の政治家。高市皇子の子。天武天皇の孫。藤原不比等没後、左大臣。不比等の子、聖武天皇の夫人、光明子の皇后冊立に反対、藤原氏の陰謀により自殺させられた(長屋王の変)。「万葉集」「懐風藻」に詩歌をおさめる。

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世界大百科事典内の長屋王の言及

【宴会】より

…そのほか,もちろん賓客に対するもてなしとしての宴会もある。8世紀には,唐,新羅,渤海の使節が来訪すれば,朝堂院において天皇出御のもとに宴が開かれるのが例であったし,《懐風藻》で知られるように,長屋王は自邸に新羅使節を招いて詩賦の宴を催している。年初に行われる二宮(中宮と東宮)大饗,大臣大饗などは,年中行事としての宴ではあるが,直属の臣下あるいは一族の高官を招いて開く宴であるから,一面では賓客に対するもてなしとしての性格をもっており,3夜連続して行うのを通例とする結婚の宴は,通過儀礼にともなう宴であると同時に,賓客へのもてなしの宴でもあって,後に述べる三日厨(みつかくりや)に通ずるところがある。…

【長屋王の変】より

…729年(天平1),藤原氏によって長屋王を打倒するためにしくまれた政治的陰謀事件。727年(神亀4)閏9月,聖武天皇と夫人藤原光明子との間に某王(基王とも)が誕生した。…

【奈良時代】より

…その間,首(おびと)皇子(母は藤原宮子)が14歳で立太子,また元正天皇(元明天皇の娘)が皇太子の成長を待つ間,しばらく女帝として即位したが,不比等は三千代との間に生まれた安宿(あすかべ)媛(光明子)を皇太子妃とし,さらにみずからが中心となって養老律令の撰定に着手した。 しかしその藤原不比等が720年に死去すると,直ちに《日本書紀》撰進の大任を果たしたばかりの舎人(とねり)親王が知太政官事に,新田部(にいたべ)親王が知五衛及授刀舎人事に就任,また翌年には長屋王(父は高市皇子)が右大臣に昇進して,天武系皇親が新政権の中核となり,政局は大きく転換した。時も時,元明太上天皇が病死,また多治比三宅麻呂と穂積老が謀反誣告と乗輿指斥の罪で配流される事件が起こって不穏な情勢となったが,間もなく724年(神亀1)には首皇子が聖武天皇として即位し,ついで安宿媛との間にはじめて皇子(基王とも伝える)が誕生,直ちに立太子された。…

【藤原氏】より


[奈良時代]
 文武天皇が宮子の生んだ首(おびと)皇子(後の聖武天皇)を残して早世すると,不比等は後妻の県犬養三千代(あがたいぬかいのみちよ)の生んだ光明子を首の夫人として皇室との姻戚関係を維持しながら,武智麻呂(むちまろ),房前(ふささき),宇合(うまかい),麻呂(まろ)の4子を次々と朝廷に送りこみ,717年に右大臣で朝廷の首班となると房前を参議に加え,大臣以下参議以上の公卿には有力諸氏から1人ずつという慣例を破り,720年に不比等が没した後は,武智麻呂が中納言となって公卿に加わった。だが首班は左大臣長屋(ながや)王となり,王は即位した聖武天皇の皇后に光明子が夫人から昇格することに反対したので,729年(天平1)武智麻呂ら4兄弟は長屋王を反乱の罪名で自殺させ(長屋王の変),光明子を臣下の出身としては最初の皇后とした。しかし737年には疫病のために4兄弟がみな病死して県犬養三千代の前夫の子の橘諸兄(たちばなのもろえ)が朝廷の首班となり,また740年に宇合の子の広嗣が北九州で反乱を起こしたので(藤原広嗣の乱),藤原一族はしばらく塞(ひつそく)した。…

【藤原宮子】より

…697年(文武1)8月,文武天皇の夫人となり,701年(大宝1)12月に首(おびと)皇子(聖武天皇)を生んだ。724年(神亀1)2月,聖武天皇の即位によって大夫人の号が与えられたが,長屋王が令の規定とのかかわりを問うたので同年3月にこれを改め,文字で記す場合には皇太夫人,言葉であらわす場合には大御祖(おおみおや)と称することとなった。また皇太后でもあったが,749年(天平勝宝1)7月の孝謙天皇の即位により,太皇太后となった。…

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