精選版 日本国語大辞典 「庭園」の意味・読み・例文・類語
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
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大自然に擬して人間がつくった小自然の景観。原初は神を祀(まつ)る儀式の場であったり、農作業などの実用の場であったりしたが、文化が進むにつれて、人間と自然とのかかわりを求めて、住居を取り巻く環境として発達した。
庭園にあたることばは、ヨーロッパではゲルマン語系で表現される。すなわちgarden(英語)、jardin(フランス語)、jardín(スペイン語)、giardino(イタリア語)、Garten(ドイツ語)などで、これらの語の基礎となる共通の語根はgher-で、土地に関する支配ないし囲い込みを意味している。これは村落や部族の共同体の生活のなかで家畜を飼育する場所であったが、のちに王や貴族のための蔬菜(そさい)、果樹、森林園をさすようになったことを示している。それが文化の発達に伴って、実用目的から離れて花や緑樹を植え、憩いの場として装飾的な地割や植栽を施して、観賞を目的とした庭園へと発達していった。
日本で「庭園」ということばが使われるようになるのは、西洋文明が入ってきた明治40年(1907)ごろからで、gardenの訳語としてであり、その歴史は浅い。庭園の「庭」という字は、元来中国においては堂前の場所、つまり屋前の平坦(へいたん)な場所をさしたから、日本に伝わったとき、一木一草一石もない広場(祭政を行う場所)を『日本書紀』では「庭(てい)」、『古事記』では「邇波(には)」「二八(には)」といったが、これは後世のいわゆる庭園ではなかった。
[重森完途]
自然と深いかかわりをもつ日本の庭園は、その自然や四季の移ろいとともにつくられ、生き続けてきた。国土の周囲を海洋で取り囲まれている日本の庭園は、その広大な海や湖沼を表現するために池泉を多く設け、中世のころには庭園のことを「園池(えんち)」というようになった。『日本書紀』では「園」「苑(えん)」「囿(ゆう)」などが用いられている。同時代、庭園にあたることばに「前栽(せんざい/せんさい)」があり、また奈良期から鎌倉期ころまで用いられていったんとだえ、江戸期に復活されたことばに「林泉」がある。このほか庭園を意味することばとしてわが国で用いられてきたものには、「坪」「池庭(ちてい)」「泉石(せんせき)」「山水(さんすい)」「仮山(かざん)」「枯山水(かれさんすい)」「石壺(いしつぼ)」「蓬壺(よもぎがつぼ)」「泉水(せんすい)」「水閣(すいかく)」「水石(すいせき)」「御庭(おにわ)」「御園(おその)」などがある。
日本の庭園は大きく類別すると、次の三つに分けられる。
〔1〕池庭(池泉) 舟遊式、回遊式、借景式
〔2〕枯山水 禅院式、池庭式
〔3〕露地(ろじ) 草庵(そうあん)式、書院式
また、庭の構成要素としては、(1)池と水、(2)石組(いわぐみ)、(3)自然の風景を再現するための築山(つきやま)、野筋(のすじ)、植栽、(4)付属物としての飛石、敷石、石灯籠(いしどうろう)、垣根などの類がある。以下、日本の庭園の変遷を時代を追ってみることにしよう。
[重森完途]
古代の人々は、大自然が神仏のつくったものとすれば、庭は神仏に捧(ささ)げるものと考えた。『万葉集』に、「庭なかの阿須波(あすは)の神に小柴(こしば)さし吾(あれ)はいははむかへりくまでに」(第4350歌)などしばしば出てくる「庭」は、家の前の開けた所で、神を祀(まつ)る場所、斎庭(ゆにわ)(忌庭)とよばれ、隅に梅や橘(たちばな)が植えられていた。現在のような意味での庭はシマとよばれ、この島は離れた地であり別世界を意味した。この場合、島を取り巻く池は海の象徴で、池と島が日本の庭の原型である。また古代、神々は天空から地上の高い所に降臨すると信じられ、その際に大きな枝ぶりのよい木とか大きな石に神が来臨すると考えた。日本の庭園が、外国のそれと比べて、みごとな石組を特色とするのはこれに由来する。
石組の原初の形とみられるものに「環状列石」や、石を神格化した「磐座(いわくら)」「磐境(いわさか)」がある。環状列石は有史以前の先住民族のつくったものであるが、その規模は直径2~50メートルくらいで、直立した石が円形あるいは楕円(だえん)形に並んでいる。個々の石の高さは1ないし2メートルのものが多く、環状の石の一つはかならず子午線の方向をさしている。このことから環状列石は漁に関係あるとか祭祀(さいし)に関係あるともいわれ、また、北海道積丹(しゃこたん)半島の直径2メートルの環状列石から人骨を葬ったとみられる燐(りん)が採取されたところから墳墓説も行われたが、まだ定説となってはいない。
磐座は祖霊祭祀やその地の守護神が宿る場所として、山上や山腹にある巨石を崇拝したことから始まる。やがて祖霊の降臨する場所あるいは聖地に巨石をいくつも据えて崇拝するようになった。これが磐境である。すなわち、磐座は自然の巨石崇拝、磐境は人間の手によって設けられた巨石崇拝で、縄文末期から弥生(やよい)初期にかけて多くつくられた。
ついで弥生後期から飛鳥(あすか)時代にかけて現れるのが神池(しんち)・神島(しんとう)である。これも祖霊崇拝や土地の守護神の祭祀と深いかかわりがあり、広い池に島々が点在する形態は庭園のようにみえるが、実は庭園ではない。古代、異民族や異なった文化は、海を渡り島伝いに伝来した。ために海と島は神として崇(あが)められ、海や島を再現して神を祀ったのである。これが神池・神島である。当初は庭園として構築したものではないにせよ、飛鳥期以降、神池・神島を基盤として庭園意匠が構成されていったことは間違いない。神池・神島が磐境と異なるのは、土木技術を必要とした点で、これは大陸からの渡来人によってもたらされた造園技術によって各地でつくられたと考えられる。
現存する神池・神島は、後世の庭園・池泉の中島(なかじま)に相当する神島の数、配置、形態などにより次の四系統に分類することができる。これらは祭祀の形式や祭神によって決まる。
(1)宇佐(うさ)系あるいは宗像(むなかた)系 三島直線あるいは直線多島形式
(2)秋津島(あきつしま)系 丁字形二島
(3)出雲(いずも)系あるいは吉備津(きびつ)系 三島による三角形、または四島以上の多島形式
(4)阿自岐(あじき)系 複雑多島形式
神池・神島よりやや時代が下って、古代の宮居における池と島のあり方を示したものに、池心(いけごころ)と瑞籬(みずがき)がある。『日本書紀』巻四の孝昭(こうしょう)天皇元年秋7月の条に池心宮の記述があり、同書巻五の崇神(すじん)天皇3年の条には瑞籬宮の記がある。池心宮とは池泉の中央に中島を置いた形態で、池の中心点の島にある宮居の意である。瑞籬は中島の周辺の水の垣根、つまり池泉を意味する。いうなれば、池心とは池泉の外に立って宮殿を見たもので、瑞籬(=水垣)は池泉の中心にある中島から外部を見た考え方である。中島に宮殿を建てるということは、中国の蓬莱(ほうらい)神仙の思想に基づくもので、『漢書(かんじょ)』によれば、都の長安に太液(たいえき)池が掘られ、池の中に瀛州(えいしゅう)、蓬莱、方丈の三山をかたどったと記されている。またそうした神仙思想とは別に、池心や瑞籬は一種の城郭的な構えをなしていたであろうとも思われる。
現存する出雲系の神池・神島は、いずれも池心や瑞籬のような構えをみせており、出雲系の神島に祀られている神々は磐座や磐境である事実も注目すべきである。こうした神池や神島の形態は庭園ではなくとも、庭園としての萌芽(ほうが)をみせ始めたものと考えてよい。そして奈良朝ごろから平安中期にかけて本格的な庭園が出現してくるのである。
[重森完途]
『日本書紀』によれば、推古(すいこ)天皇(在位593~628)のとき蘇我馬子(そがのうまこ)が飛鳥川のほとりに臣下として初めて池泉をつくり島をつくった。このことは当時話題となり、人々は彼を嶋大臣(しまのおとど)とよんだと記されている。同じ「推古紀」に、庭造りの路子工(みちこのたくみ)が渡来し須弥山(しゅみせん)をつくったとある。法隆寺五重塔の内部に須弥山をかたどったものがあるが、仏説によれば須弥山は世界の中心にある山で、周囲は海であった。『続日本紀(しょくにほんぎ)』の天平宝字(てんぴょうほうじ)6年(762)3月の記に、宮殿の南西に新しく池亭をつくり曲水の宴を催したとあり、奈良時代になると多くの園池がつくられた。園城寺(おんじょうじ)園池、薬師寺竜宮池庭、橘島宮(たちばなのしまのみや)苑池、浄御原(きよみはら)苑池、藤原宮御苑池、藤原不比等(ふひと)山荘園池、長屋王(ながやのおおきみ)園池、藤原宇合(うまかい)園池、葛井広成(かつらいのひろなり)園池など多くつくられたが、現存するものは一つもない。『万葉集』にも当時の数々の池庭が歌われているが、これとても完全な形で残っているものはない。これらの園池は神池・神島から発展して、庭園としての形をみせ始めたと推察されるが、反面、広大なわりには粗放なものではなかったかと思われる。庭園としての景観を重視して設計整備された、優美で本格的な庭園が出現してくるのは平安時代に入ってからである。
[重森完途]
景観を主体に庭をつくり、舟遊びの面を強調し、さらに滝を落とし、流れとしての遣水(やりみず)を整備して、優美な眺めをみせた庭園ができあがるのは平安期に入ってからである。この時代の庭園の主体をなすものは池で、洲浜(すはま)形という海岸線を模した曲線で構成され、中島や岩島を配して海洋的風景を演出した。また東に桜、西に紅葉というように四季を表す樹木を植えた。池は竜頭鷁首(りゅうとうげきす)の船を浮かべ詩歌管絃(かんげん)を楽しむ舟遊びを目的としたもので、池の中央に一島大きな島を据えて蓬莱島とし、島の間を巡って時々刻々に変わりゆく風景を眺められるようにした。池泉の底部は水が漏らないように粘土を約30センチメートルほど厚く張り、さらに水が清らかに澄むように砂利30センチメートルほど敷くという念の入った技術で、東西約650メートル、南北約860メートル(鳥羽(とば)離宮)のような大きな池泉もあり、池水は海のようだと記録されている。
石組意匠は、護岸の場合は三重五重と重ね、滝の三尊(さんぞん)石組は上から見た形を正三角形とし、横石風な石を立て、豪健で優美な手法を示している。
こうした庭園の展開の背景には、奈良時代のころからの庭造りに関するさまざまな言い伝えや、禁忌・方法論などの集大成『作庭記』の成立がある。「前栽秘抄」ともよばれる本書はもともと題名のあった巻子本(かんすぼん)でなく、伏見修理大夫(ふしみしゅりのだいぶ)であった橘俊綱(たちばなのとしつな)の著作といわれ、成立は康平(こうへい)年間(1058~1065)とされる。こうした書物の生まれた平安期の庭園は、作庭家が各地の名所や風情ある場所を参考にしながら、作家独自の心象風景をわかりやすく、具象的に表現したものであった。『作庭記』に「国々の名所をおもひめぐらして。おもろしろき所々をわがものになして。おほすがたをそのところところになずらへて。やはらげたつべき也(なり)」と記されているのをみても、当時の作庭の事情がよくわかる。すなわち寝殿造庭園では、全体の意匠、つまり地割は同じようにみえても、洲浜や洲崎の形、築山や野筋の規模・形、あるいは滝の規模、水の落とし方、池泉護岸の石組の形、三尊石組の規模、植栽の配置、島の大きさと数、干潟線(汀(みぎわ))の意匠など、さまざまに変化させて作庭したのである。しかし、作庭家がいかに多くの名所を見ようとしても、当時の交通手段を考えると、そこにおのずから限界がある。そこで作庭家が参考にしたのは絵画であった。
日本の庭園は、平安以降江戸末期に至るまでさまざまな芸術の影響を受けて発展してきたが、とりわけ深く影響を受けたのは絵画であって、平安のころはいうまでもなく大和(やまと)絵であった。これは日本的な絵画を中国的な絵画の唐(から)絵と区別するために、倭(やまと)絵と称し、様式や技法よりも題材内容が日本特有の事物であるかどうかを重視したものである。これら大和絵に描かれた日本の四季絵、名所絵、あるいは月々の行事を描いた月次(つきなみ)絵が作庭の参考にされ、新しい庭園の意匠として採用された。
平安期にできた池泉の多くは荒廃してしまったが、現存するものに、京都の大沢池庭、渉成(しょうせい)園、平等院鳳凰(ほうおう)堂池庭、勧修寺(かじゅうじ)池庭、積翠園(しゃくすいえん)池庭、岩手県の毛越寺(もうつうじ)池庭、静岡県の摩訶耶寺(まかやじ)池庭などがあり、いずれも舟遊式の池庭である。
[重森完途]
初期には舟遊式のものが作庭されていたが、やがて舟遊びと回遊を兼ねた形式(西芳(さいほう)寺、鹿苑(ろくおん)寺)から回遊のみの庭園(南禅院)へと移行する。池泉の形にも、二つの池を結んだ一種の瓢(ふくべ)形の池泉(西芳寺、知恩院)が現れた。平安期から鎌倉期の庭園は平面の地割をとくに重視し、幾何学的・有機的に整然とした地割をしているが、これを高所から俯瞰(ふかん)することによって、さらに平面的美観に加えるに立体構成による美観を考えた。そのために鹿苑寺の金閣のように、楼閣を設け、2階・3階からの俯瞰的観賞にあてた。
池泉の底部は、平安時代より粘土の厚みや砂利の厚みが約半分と薄くなっている。洲浜形の池泉が多く、洲崎の先端に大石を1個据えているのもこの時代の特色である。中島には立石による石組が用いられ、上から見た三尊石組は平安期の正三角形に比べ、二等辺三角形となっている。石橋もこの時代になって架けられるようになった。
建築では書院造が現れ、それに対応して回遊式庭園が多くつくられるようになった。石組も平安期の優美さが消え、時代相を反映して豪健さが好まれるようになる。『作庭記』にかわるこの時代の代表的な造園書『山水並野形図(さんすいならびにやぎょうず)』には新しい庭園に対する意欲がみられ、作庭家阿波阿闍梨静空(あわあじゃりせいくう)の弟子静玄は、鎌倉の二階堂に高さ3メートル余もある石組を立て、建久(けんきゅう)3年(1192)8月24日、源頼朝(よりとも)も見物に出かけたことが『吾妻鏡(あづまかがみ)』に記されている。
平安期に造園の参考とされた大和絵の影響に加えて、中国から来朝した禅僧蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)らの意匠が加わり、竜門の滝の様式が生まれた。京都・天竜寺や信州・光前寺(長野県駒ヶ根(こまがね)市)の滝石組がその例である。
[重森完途]
この時代に入ると、庭園の形態に大きな変化が現れる。初期のころはまだ池泉回遊式が多くつくられたが、それと並行して、屋内から座視して観賞する観賞式池泉が現れる。当時の将軍足利義教(あしかがよしのり)が庭園を好んだこともあって、1430年(永享2)室町殿に池庭がつくられた。細川右京大夫(うきょうのだいぶ)もこの年京都の自邸に作庭し、大内氏も京都の邸(やしき)に飛泉亭をつくった。しかし、室町時代は政治的にも経済的にも不安定で疲弊していたから、莫大(ばくだい)な工事費を要する広大な池泉はつくられなかった。
池底部の粘土は鎌倉期よりもさらに薄くなり、砂利は岩島を意匠する部分にしか敷いていない。これは舟遊びの習慣がなくなって、それほど清冽(せいれつ)な水を必要としなくなったからでもあるし、経済的理由も大きい。現存するこの時期の池泉庭園は、島根県の小川邸・万福寺・医光寺、山口県の常栄寺・香山園、愛媛県の保国寺、福岡県の亀石坊・横岳崇福寺などかなり多い。こうした足利氏を中心とした各地の作庭には河原者(かわらもの)が多く従事し、善阿弥(ぜんあみ)、文阿弥、左近四郎など著名な作庭家が活躍した。
池泉庭園にかわって出現したのが枯山水(かれさんすい)である。『作庭記』にも、「池もなくやり水もなき所に石をたつること、これを枯山水と名づく」とある。枯山水は水を一滴も使用しないで水の表現をするという一種の抽象表現であり、平安末期にはすでに庭園の一部に使われ始めており、これを前期式枯山水とよんでいる。室町期になると、庭園となるべき敷地は非常に狭く、たとえば京都・大仙院庭園などは約31坪(約100平方メートル)しかないが、この狭い敷地に広大な池泉を巡らして具象的な内容を盛り込むのはとうてい困難で、いきおい省略的・抽象的表現の庭にならざるをえなかった。すなわち、庭園の本来の姿は山と水が基本であるが、それを、白砂を敷いて海洋の姿とし、岩を配して山あるいは島に見立てるという表現方法である。
庭園の構成の参考となるべき絵画も、大和絵はすでに衰退期に差しかかり、かわって北宗(ほくしゅう)山水画のような水墨画が盛んになってきた。とくに「破墨山水」といわれる抽象表現の高いものが作庭に与えた影響は大きい。さらに河原者以外にも、雪舟のような画僧が作庭に参加したため、水墨の世界が庭園に生かされ、工事費が安くつくこともあって、禅的な抽象性の高い枯山水が流行した。
また応仁(おうにん)の乱(1467~1477)以前は、書院や寺院方丈の南庭は儀式や法会(ほうえ)を営むための広場であったが、応仁の乱以後は儀式や法会が屋内で行われるようになり、これらの広場はいわば無用の長物となった。そこで、その場所につくられたのが龍安寺(りょうあんじ)や大仙院などの方丈前の庭園であり、この時期のものを後期式枯山水とよぶ。以上のような理由から、室町時代の庭は一般に小庭園が多い。
こうした枯山水庭園は、応仁の乱後の1478年(文明10)以降、京都を中心に流行したが、地方にはあまり伝播(でんぱ)しなかった。地方のほうが保守的傾向が強かったからでもあるし、水墨画はまだ京都を中心にもてはやされていたからでもある。室町末期になると、枯山水も室町初期の省略的・抽象的表現が薄れ、具象的・説明的になってくる。京都・退蔵院庭園はその好例である。庭園の石組の素材としての石は、平安・鎌倉期に比べて際だって小ぶりになっている。これは庭園が狭くなったためとも考えられるが、雪舟作庭の山口県常栄寺のように広大な庭園でも、枯山水部分の石は比較的小さいのである。
植栽に関しては、山口の大内盛見(もりはる)が京都の邸に庭をつくり、わが国で初めて蘇鉄(そてつ)を植えたことが『蔭凉軒日録(いんりょうけんにちろく)』にあるが、これは注目すべきことで、蘇鉄は江戸時代になって大いに珍重された。
室町時代は政治的にも経済的にも暗い時代ではあったが、代々の足利将軍は芸術を愛し、庭園愛好家が多く、仏教では禅宗のもっとも盛んな時代であったから、禅宗寺院に作庭された例が多い。
この時代を代表する池庭としては、慈照寺(京都)、旧大寺(きゅうだいじ)(兵庫)、旧秀隣寺(滋賀)、北畠(きたばたけ)氏館跡(やかたあと)(三重)、常栄寺(山口)、旧亀石坊(福岡)、志度寺(香川)、保国寺(愛媛)などがある。枯山水で有名なのは、前述のほかに、真珠庵(あん)、竜源(りょうげん)院(京都)、安国寺(広島)などである。
[重森完途]
この時代は政治上の時代区分としては徳川家康が江戸幕府を開いた1603年(慶長8)までということになるが、絵画や工芸、建築、庭園などの芸術の作風は江戸初期の寛永(かんえい)(1624~1644)ごろまで続いたと考えてよい。つまり、桃山芸術の特色である豪華絢爛(けんらん)な風潮は、慶長(けいちょう)・元和(げんな)(1596~1624)のころよりむしろ寛永期のほうが顕著であった。この時代、大和絵がまた復興の兆しをみせているが、それよりも長谷川等伯(とうはく)や俵屋宗達(たわらやそうたつ)、狩野山楽(かのうさんらく)・山雪(さんせつ)らの雄大で鮮やかな障壁画の発達が目覚ましい。等伯は大画面の障壁画に古典的な水墨画を復興し、宗達や山楽・山雪は金碧(きんぺき)の障壁画で装飾性の強い華麗な作品を残した。
桃山期は戦国の様相がようやく鎮静して、平和な社会を迎えた時代で、公武僧俗いずれも明日を思い煩うことなく、豊かな生活を楽しんだ。武家は自己の勢力を相手に誇示するために金碧の屏風(びょうぶ)や金の瓦(かわら)を建築に飾り付けたが、こうした時代風潮は庭園の分野にも浸透して、ふたたび池泉庭園がつくられるようになった。枯山水もなくはないが、豪壮華麗な石組を展開させるためには、池泉庭園が適していたからである。織田信長が足利義昭(よしあき)のためにつくった二条旧庭園(現存せず)や、朝倉義景(よしかげ)の越前一乗谷館址(えちぜんいちじょうだにやかたあと)の諸庭、粉河(こかわ)寺(和歌山)、名古屋城二の丸・三の丸、松尾(まつお)神社(滋賀)、徳島の阿波(あわ)国分寺、千秋閣(せんしゅうかく)などがある。そして、桃山的な華麗な意匠を示した池庭としては、醍醐(だいご)三宝院、二条城二の丸、光浄院など数多く作庭され、枯山水では京都の本法寺、玉鳳(ぎょくほう)院庭園などがある。
この時代の池泉の底部の構造は室町期と大差ないが、大きく変化したのは石組の素材である。室町期の小ぶりな石とは対照的に、高さ2、3メートル、重さが2、3トン以上もある大きく豪快なものを数多く用い、それも集団的に用いている。
池泉では島を多くつくり、中央の大きい島を蓬莱島とし、ときには鶴(つる)島、亀(かめ)島で表現した。新しい手法としては、蓬莱島に石橋などの橋が架けられる。本来、蓬莱島は海上はるかな理想郷とされていたから、それまでの池泉庭園では、島を往来する船が港に停泊しているさまに見立てて石組にした夜泊(よどまり)石組が行われていたのであるが、その蓬莱島へ歩いて渡れるように橋を架けたのは画期的なことであった。
三尊石組は、平安期の正三角形、鎌倉期の二等辺三角形、室町期の前期よりさらに開いた二等辺三角形があったが、桃山期には不等辺三角形という変則的で動きの激しいものとなり、この時代にふさわしい表現となった。
この時代のもう一つの大きな特色は、茶の湯のための露地が創案されたことである。それまでの庭園はすべて観賞するためか、あるいは舟遊びや遣水にみられるような文学的遊びの庭であったが、露地はそれまでの庭の性格とはまったく異なる、茶室に入るための実用の庭であった。それも最初は「面(おもて)ノ坪ノ内」とか「脇(わき)ノ坪ノ内」とかよばれて、せいぜい1~4坪くらいの狭い庭空間で、植栽はなく、坪の外は松林とか大きい松が1本あるのみの簡素なものであった。それがしだいに意匠を整え、雨の日のために敷石や飛石が考案され、手水(ちょうず)鉢や石灯籠、垣根などが取り入れられ、茶室に至る通路としての佗(わ)びた庭の体裁を完成させたのである。この露地の意匠は一般の庭園にも応用され、現在にまで及んでいる。豊臣(とよとみ)秀吉は蘇鉄だけの露地をつくり、千利休(せんのりきゅう)在世のころまでに二重露地が完成していた。なお、寛永期の特徴として、築山には植栽や石組を施さないで山容の美しい姿を強調したことがあげられる。築山に植栽、石組を行うようになるのは寛永末年ごろからである。
[重森完途]
寛永以後、江戸時代全般を通じて、大きな変革はみられず、舟遊びや回遊を兼ねた池泉に茶亭や露地も付設され、これまでの作庭の集大成的表現に終始した。
正保(しょうほう)から万治(まんじ)年間(1644~1661)はまだ寛永期の影響がみられるが、それ以後はしだいに力強さを失って、寛文(かんぶん)から延宝(えんぽう)(1661~1681)ごろにかけて、それまでの広く大きく丸い池泉は細長くなり、この傾向は貞享(じょうきょう)(1684~1688)ごろまで続く。そして元禄(げんろく)(1688~1704)のころ池はふたたび円となり、中央に鶴島か亀島、あるいは蓬莱島のみを置き、その中島と対面して滝石組を設けるようになった。この意匠は正徳(しょうとく)(1711~1716)ごろまで用いられた。
享保(きょうほう)年間(1716~1736)には江戸中期の意匠がかなり判然としてきて、池泉は小さく、滝の三尊石組も横に並んだ形となり、上から見ると三角形の両辺が広がった姿で、素材の石そのものも小ぶりのものとなった。
家屋から見た池泉の対岸の中央部を突出させ、出島を大きく見せるという新しい風潮もこのころ生まれた。また、山裾(やますそ)の下部を利用して池泉をつくることも行われた。植栽は正真木(しょうしんぼく)と称して、築山の上か中島など庭園の中心となるべき位置に、松柏(しょうはく)いずれかの樹木を植えたが、この場合、松は一庭の草木の司(つかさ)としての役目を与えられていた。1本の樹木を丸、四角、菱(ひし)、長方形などに整形する小刈込みが行われ、これを粋(すい)とかいきといって喜んだ。このように末梢(まっしょう)的な技巧に走って、意欲的な作品は少なかった。江戸中期から末期にかけて、草花の園芸書や『築山庭造伝前篇(ぜんぺん)』『同後篇』『都林泉名勝図会(みやこりんせんめいしょうずえ)』などの作庭の手引書や案内書が数多く出版された。これは江戸末期、一般人も庭をつくることが許され、豪農豪商が競って庭をつくったことにも原因があるが、その一方、こうした手引書によって作庭意匠が定型化し、創作的な庭が出にくくなったことを物語っている。江戸で作庭を手がけた庭師たちは諸大名に従って各国に散り、そこでやはり定型化した庭園をつくった。そのため、地方においては江戸中期以降、傑出した庭園は少ない。
しかし、これほど数多くの庭園がつくられた時代は、ほかに例がない。天下泰平の時代であったから、全国に分布した諸大名によって広大な大名庭園がつくられ、またそれら大名の庇護(ひご)のもとで寺院庭園もつくられた。有名なものに、東京の小石川後楽園・旧芝離宮・伝法院・六義(りくぎ)園・旧浜離宮、香川の栗林(りつりん)園、岡山の後楽園と衆楽(しゅうらく)園、熊本の水前寺成趣(じょうじゅ)園、その他がある。枯山水では京都の大徳寺方丈・酬恩庵方丈・金地院(こんちいん)、その他があり、池庭では京都の智積(ちしゃく)院・清水成就院(きよみずじょうじゅいん)その他がある。
江戸時代に活躍した作庭家には、小堀遠州(えんしゅう)、片桐石州(かたぎりせきしゅう)、正阿弥、玄丹、本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)らがおり、また青森を中心として大石武学(ぶがく)が武学流を広め、九州地方では石龍が夢想流を、出雲地方では沢玄丹が玄丹流を、伊予地方では吉良桜きょうが桑原流を流行させた。この何々流という形で、定型化にさらにいっそうの拍車がかかった。
[重森完途]
明治初年に洋風庭園が入ってきて日本の庭園に影響を与えたが、当初は日本庭園とあまり調和したとはいえない。やがて各地に公園もでき、日清(にっしん)・日露戦争以後はいわゆる戦争成金が金に飽かせて作庭する風潮を生じた。それらの池泉は広大で、庭園の中に枯山水風の配石をし、二重露地、園遊会のできる芝生の広場、さては田園の風趣を楽しむための田んぼや畑、水車を設けた。いわば一種の総合園のような形態の庭園であったが、石組は自然の山野の姿を模したにとどまり、庭師も石組の技術を持ち合わせていなかった。ほとんどが借景式庭園で、依頼主がいわゆる旦那(だんな)芸で作庭の施工者を指図し、庭師もその命令に唯々諾々と従い、傑出した庭園など望むべくもなかった。
大正末年ごろから時代の新しい要請にこたえて、いくつかの大学に造園科が設置されたり、造園の専門学校や研究団体も生まれた。
第二次世界大戦後は建築の多様化によって数多くの庭園がつくられ、組織的・体系的な研究も盛んになってきており、ようやく今後に期待しうる状態になったといえる。
[重森完途]
中国は悠久な歴史と広大な国土をもち、その時々の王朝の民族によって、さまざまな古典庭園がつくられた。それらは規模も大きくかなりの数に上っている。中国の庭園を分類すると、王宮庭園、貴族庭園、寺院庭園、公共庭園の4種になる。このうち帝王の庭園がもっとも早くからつくられ、歴代の帝王はいずれも大規模な造営を行ったが、ひとたび戦乱が起こるといち早く破壊されるのは王宮庭園であったから、商殷(しょういん)の沙丘苑(さきゅうえん)、周の霊囿(れいゆう)、呉(ご)王の消夏(しょうか)湾、秦(しん)の阿房宮(あぼうきゅう)、漢の上林苑(じょうりんえん)、北朝の鹿苑(ろくえん)、唐の神都苑(しんとえん)、金の明池(めいち)など、数多くの名が残ってはいるものの、現存するものは故宮の乾隆(けんりゅう)花園など、時代も新しく、数も少ない。貴族や豪族の山荘は山西省の唐代の絳守の居園、広州の五代の南苑楽州、山東省の清(しん)代の十笏(じっしゃく)園などがある。
寺院庭園は王宮庭園ほど広くはないが、周囲の風景とよく引き立て合い、寺院とともに静かなたたずまいをみせている。揚州平山堂の西園、北京潭柘(ペキンたんたく)寺の行宮院など、比較的多く残っている。
公共庭園は都に近く、交通の便のよい、川湖の近辺につくられた。長安曲江、杭州(こうしゅう)の西湖(せいこ)、済南(せいなん)の大明湖などは古来からの遊覧地として人気があった。そのほかに料亭の庭も、北京にある明(みん)代のい園飯荘などいくつか残っている。
[重森完途]
中国古代の周時代(前11世紀~前3世紀)の庭の意匠は詳しくはわかっていない。土を掘って広い池泉をつくり、その土で高い霊台をこしらえ、樹林に鹿(しか)が群れるさまを『詩経(しきょう)』などによって知るのみである。『春秋左氏伝』には周の恵王(在位前677~前652)は大臣の圃(ほ)をとって囿としたとあり、『説文解字(せつもんかいじ)』によれば圃は菜園、囿は禽獣(きんじゅう)の飼育園とあり、中国も日本の古代と似たような状態であったと想像される。同じく『詩経』によれば、周時代、花樹を観賞し、梅、李(すもも)、竹、荷(か)、楊柳(ようりゅう)を植えていたことがわかる。
秦代には壮大な阿房宮がつくられたが、秦はわずか15年で滅び、このときの建築や庭園の様式は次代の漢に引き継がれることとなった。秦代で注目すべきことは、海上に三仙山を想定し、その一つを蓬莱山(ほうらいさん)に模して作庭することで、この思想や形式は漢代に伝わり、のちにわが国の造園にも影響を及ぼした。
漢代は前漢と後漢(ごかん)に分かれるが、約400年続き、最大勢力時には西域(せいいき)、南海、東方、北辺に及んだ。大きな庭園が前漢の都長安と、後漢の都洛陽(らくよう)につくられた。とりわけ広大であったのは前漢の武帝がつくった上林苑で、渭水(いすい)の南にあり、周囲は百数十キロメートル、この中に離宮を70か所建て、庭園には花樹を3000余種植え、百獣を放し飼いにしたという。園内には昆明(こんめい)湖をはじめ大湖を六か所つくった(前119)。また長安に近い茂陵(もりょう)の商人は、東西四里・南北五里にわたる広大な庭園を築いた。園内は岩石を積み重ねた高さ30メートルの山を何キロメートルにも連ね、激流を奔(はし)らせ、奇獣珍鳥を放ち、奇樹異草を植栽した。この園はのちに宮苑となり、園内の素材は上林苑に移された。これらの記事から、漢代の庭園は自然の景を写し、さらに新しい楽園を求めた傾向がうかがえる。
南北朝のころは、玄武湖のような大湖をつくり、水辺に楼閣をつくることが流行し、この伝統は後世の造園にも引き継がれた。また花樹の林や曲池は、当時の庭園意匠の一典型となった。
唐代になると、山岳に宮殿を建て、さらに大池泉を掘り、水辺に亭(ちん)をつくった。庭園の中には、山岳や湖沼の岩をしのばせる大湖石(たいこせき)を配した。これは次の宋(そう)代に大流行したが、前代におこった禅宗と、宋代に一つの頂点に達した水墨山水画と無縁ではない。大湖石は中国人の山水愛好の思想の一つの証左といえよう。
南宋(なんそう)になると、江南の風光明媚(めいび)な風景をそのまま庭園に取り入れ、巨岩の大湖石を適宜配置し、竹林、松、梅林、蓮池(れんち)、牡丹(ぼたん)園など植栽を主体にした庭園が流行した。一般の住居も庭園をつくり、仮山(かざん)と称してその雅趣を楽しんだ。
金は北京に都し、城内にいくつもの御園を設け、北京西山(せいざん)一帯の八処寺院にも行宮をつくり、西山八院と称した。1179年、大寧宮が落成し、金、元、明、清(しん)四王朝の王宮庭園となった。ほぼ完全な形で現存するもっとも古い王宮庭園で、現在の紫禁(しきん)城外の北海である。総面積68万平方メートル、そのうち水面は39万平方メートルを占める。団城、瓊華(けいか)島などの島があり、瓊華島は海上に浮かぶ仙山、蓬莱島を想定している。
1234年モンゴル民族は金を滅ぼし、1271年元王朝を建て、引き続き北京を都とした。元も漢民族の文化を伝承し、庭園にもあまり異なった趣向はみられない。貴族官僚の庭園には何々亭とよぶものが多く、水に臨んで建てられ、別荘として使われた。
明代には、王宮の庭園、禁苑のほかに貴族の邸宅にもかなり規模の大きい庭園がつくられるようになった。これにも山水画のように古樹、大湖石が配置された。
明代の造園には文学、絵画、彫刻、建築が加わり、一つの芸術世界を形象している。建築・彫刻には神話の世界や、道家・仏家にまつわる説話、仏教的内容が盛り込まれ、全国の景勝地や古寺・名園をまねて取り入れた。庭園の中に蘇州(そしゅう)や杭州の商業地の風景を実物そっくりに写し、美しい町並みや亭や坊の建築も取り入れてある。つまり、園内を散策すればそのまま広大な中国各地の趣(おもむき)を目の当たりにすることができるのである。模景は中国庭園の特色の一つで、人々は庭園を歩いて一幅の絵画を鑑賞し、さらに名勝の地に旅する思いを味わった。こうした庭園は「天を移し、地を縮め、君が懐(ふところ)にあり」といわれたように、王家の権力と財力を誇示するものでもあった。
清代は北京地区を中心として王宮庭園がいちばん盛んにつくられた時代で、「百里青(みどり)を浮かべ、金碧(きんぺき)あい望む庭園の海」とたたえられたが、1860年の英仏連合軍に破壊され、現存するものは少ない。
頤和(いわ)園は乾隆(けんりゅう)帝の時代の1750年に建設され、たびたび破壊されたが、1903年に復旧された現在のものは総面積約2.9平方キロメートル、周囲8キロメートルに及ぶ。宮殿中庭は左右に老柏(ろうはく)・老松を植え、四季折々の花を鉢植えにして並べた。
総じて中国の庭園は、すべて楽園追求の思想から発しており、規模も日本のそれと比べてはるかに大きく、人工による独自の絵画といえる。
[重森完途]
ヨーロッパの庭園史は、古代エジプトやメソポタミアにその先駆を求めることができる。古代ギリシアでは陶器や壁画、遺跡にその姿をとどめているが、おそらくは果樹園などの実利的な苑囿(えんゆう)であったと思われる。庭園については、『旧約聖書』の正典および外典の文献にも出現するが、造園作業がさまざまな建造物と組み合わされて、高度な内容をもった庭園空間として生まれてくるのはローマ帝国時代からである。
ローマでは、造園は文化創出の一現象として総合的な内容をもっていた。初期の古代ローマの庭園では住宅と庭園とが一体化され、住宅部分が戸外まで延長された意匠であった。ラテンの史書、文学、書簡などの著作のなかには皇帝、貴族、富者、有力者たちの造園についての記事が散見されるが、とくに有名なのは、小プリニウスがローマ北方の田園の二つの別荘ラウレンティナ荘とトスカナ荘について記述した部分で、その詳細な描写は多くの専門家により想像復元図がつくられ、ヘレニズム文化の生活内容の豊かさを想像することができる。
しかしこうした文章よりも、より現実的に紀元後1世紀後半のローマの庭園の模様を物語っているのはベスビオ噴火の灰礫(かいれき)の下から発掘されたポンペイとヘラクレネウムの都市遺跡で、各住宅の内庭は当時のローマ市民の生活を彷彿(ほうふつ)させる。またローマ郊外のハドリアヌス帝別荘遺跡から、各地を旅行した皇帝がその風景を模したといわれる当時の離宮庭園の実態をうかがうことができる。
中世になると修道院には中庭が設けられ、薬草や果樹が栽培され、また瞑想(めいそう)のための遊歩苑がつくられた。この時期、イベリア半島ではビザンティン時代の王侯貴族たちの愉楽的な生活を表現したイスラム宮殿の庭園がつくられた。
ヨーロッパ庭園の典型的様式が生み出されるのは近世以後である。産業革命によって中間生産者層やブルジョアジーが自らの手で市民社会を切り開いてゆく段階で、現世生活の物質的・精神的充実を図る理想から、庭園もまた台地の展望性や平地の整形性と力動性や風致性が求められた。しかしながら、ヨーロッパの庭園はその国の歴史、文化、宗教、民族性、さらに風土、地勢、気候によって、独自の発達をみせた。以下、欧米のそれぞれの庭園形態を概括的にみてゆくこととする。
[重森完途]
人類文明発祥の地として、メソポタミアとともに5000年にわたる長い歴史をもつエジプトは、国土の97%は不毛の砂漠と岩山であるが、残りの3%は母なるナイル川が乾いた大地を潤し、南に向かっては細長い沃野(よくや)をなし、地中海に向かって肥沃なデルタ地帯をつくっている。ここに花開いた古代エジプト文明は神殿と墓の文化といわれるが、神殿遺跡や墓室の壁を飾るおびただしい壁画や浮彫りに、当時の庭園のようすをうかがうことができる。
カルナックのコンス神殿はピュロン(塔門)に入ると中庭があり、両側が列柱廊になっている。アメン大神殿の内陣には巨大な聖池があり、ナイル川から運河によって水が運ばれた。これらの中庭や池は神への祭祀(さいし)の場であり、もちろん観賞や散策のためのものではない。しかし、エジプト人は墓室に描かれた壁画や浮彫りにみられるように、家庭を愛し、生活を楽しみ、美しい庭を好んだ。エジプトで壮大な石造建造物は神殿に限られ、神殿以外は王宮といえども葦(あし)と木と日乾(ひぼ)しれんがでつくられたので、現存するものは一つもない。第18王朝アメンヘテプ3世の王宮跡といわれるマルカタ遺跡などから推測すると、高級住宅は南北に長い方形で、東西は壁、奥(北)に中庭があり、西の食料品を準備する所にまた小さい庭が設けられていた。王のビラ(別荘)は長方形に囲んだ中庭の大部分を池とし、周囲に緑陰樹を配し、池には舟を浮かべ、池畔に亭(ちん)を設けた。池泉の植物は、上エジプト(カイロ以南)の象徴であるスイレン(ロータス)と、下エジプト(カイロ以北のデルタ地帯)の象徴であるパピルスであり、この二つはエジプトを統治する王の権威の象徴でもあった。
アマルナ遺跡の「北の宮殿」「王の家」にも巨大な中庭があり、池があった。意匠は左右均等のものである。このように庭に池を掘って水を引くことは王や顕官に限られていた。というのは、ナイル川の水位は低かったので、一般人に運河を掘ることなどとうてい不可能であった。
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ローマ帝国時代の庭園は中世以後とだえたが、15世紀ごろからフィレンツェを中心にイタリア・ルネサンス期の庭園が盛んにつくられた。庭園は傾斜地につくられ、建物に接して露壇(テレース)が設けられ、池泉、水盤、滝、花壇、芝生、彫像、柱廊などを配し、住居やテレースの背後には森をつくって、それらをつなぐ階段状の園路によってはるかな遠方へと眺望を広げるようにした。水の多用がイタリア庭園の特徴で、噴水、壁泉、人工滝などを各所に設け、大理石の彫像、壁面装飾などを随所に配している。植栽はカシ、傘松が多く、これらの樹木で森をこしらえた。フィレンツェのボーボリ苑、メディチ家のいくつかの別荘(ビラ)がそれである。なかでもカレジ別荘庭園は15世紀初頭のもので、イタリア最古の庭園といわれ、外縁に彫像を配し、丸い水盤を中心に十字路で区画されている。イタリア・ルネサンス期の庭園は傾斜地に設けられているのが特徴で、この意匠をまねたのが東京の旧古河邸の洋風庭園である。
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フランスの庭園はイタリアよりやや後れ、17世紀になって初めて独自の意匠をもつに至った。バロック期における最大の造園は、ルイ14世時代のベルサイユ宮殿である。これより先、財務長官フーケは造園家ル・ノートルがつくった私邸の庭を披露したが、これを見たルイ14世はル・ノートルに命じて、莫大(ばくだい)な国家予算を投じてベルサイユに作庭させた。大胆な地割と左右均整のとれた幾何学的な造型、十字形の大運河(カナル)、いくつかの花壇、装飾的な刈込みを施した植栽、芝生、森林、噴水池、それに無数の彫像を配置した。こうして整形性と力動性をあわせもつ広大な苑囿の造営が実現、自然をも人間の芸術に服従させるという西欧思想とルイ14世の意図を今日にまで伝えている。
ベルサイユ宮殿の庭園は、当時ヨーロッパ庭園の最高の範例として各国に伝わり、この様式と形態に倣った宮苑と庭園を数多く生み出した。たとえばロンドン南西郊のハンプトン・コート宮、ウィーン郊外のシェーンブルン宮、ポツダムのサンスーシ宮、コペンハーゲンのフレーゼンスボー宮、マドリード郊外のラ・グランハ宮などの庭園である。しかし18世紀になると、自然をそのままの形で生かすイギリス風庭園が流行した。ベルサイユの庭園のなかでも、ルイ15世時代につくられた小トリアノンはイギリス風庭園になっている。
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イギリスの庭園は非整形で、自然の風景をそのままに生かした、自由で夢想に富むものである。これは、イギリスの国土がなだらかな丘陵をもち、雨量が多く植物が繁茂し、美しい田園風景を展開していることにもよる。
画家で造園家のケント(1685―1748)は「自然は直線を嫌う」といい、そのため彼は並木道をつくらなかったといわれる。自然の景観をできるだけ残し、不完全な部分だけを補うにとどめた。人工的な印象をできるだけ避け、部分的に花壇と芝生を配したが、その花壇も単純な構成となっている。これは切り花を栽培するという実用目的も兼ねていた。こうしたイギリス庭園の造園には、自然の景観を重視した中国庭園や、J・J・ルソーの思想の影響も考えられるのである。
イギリス風庭園はロシアやポーランドでもつくられ、スウェーデンのグスタフ3世(在位1771~1792)もイギリス風庭園をつくった。フランスのパリにあるモンソー公園はオルレアン家の狩猟宮のあった所で、1862年にイギリス風庭園につくられた。
[重森完途]
森林と大平原、渓谷美に恵まれたドイツでは、庭園よりむしろ戸外生活を楽しむ傾向にある。庭園は最初フランス庭園の模倣もあって、ことにプロイセンのフリードリヒ大王はフランス文化に心酔し、バロック風のサンスーシ宮をつくった。ハノーバーのヘレン・ホイザー庭園は17世紀後半から18世紀初めにかけてつくられたが、長さ1.5キロメートルの長方形の庭園で、周囲を堀で囲み、木立、灌木(かんぼく)、花壇、池などがみごとな幾何学的構成をみせている。ドイツの北西部は平原で土地の高低がないので、庭園に変化をもたせるために、ときには沈床を設けて段差をつくった。近代のドイツ庭園は実用主義を追求し、戸外生活を好む国民性から、露壇を設けて庭園から直接出入りできるように、農家の庭の意匠も取り入れている。花壇の配列が単純なのはイギリス庭園の影響である。
[重森完途]
8世紀のなかばイスラム教徒によって占領されたスペインは、15世紀の末に国土回復運動が完了するまでサラセン文化の影響を受けた。イスラム教徒は造園に優れた手腕を示し、グラナダのアルハンブラ宮殿はその代表例である。13世紀から16世紀にかけて増改築され、年代によってイスラム風、スペイン・ルネサンス風に分かれる。いくつかの小中庭(パティオ)から構成され、有名なライオンのパティオはイスラム風で、ヘネラリーフェのアセキアのパティオは噴水がモチーフになり、これらのパティオが壮麗な造園空間を形づくっている。
[重森完途]
建国当時は、当然のことながら本国イギリス様式の庭園が東部に出現した。ついで好まれたのはイタリア風庭園である。個人住宅では、南北戦争時代は農家や中産階級の邸宅は周囲に芝生を巡らし、塀や垣根を設けず、この傾向は今日の都市郊外住宅にも及んでいる。これに反してブルジョアや有名人の大邸宅の多くは、厳重な塀を巡らした中に園遊会用の芝生とプールを設けているのが通例である。いずれにせよ、各国の人種の集合であるため、上記二つの様式のほか、フランス、ドイツ、スペイン、さらには日本の様式を取り入れたものまで、その種類はさまざまである。
[重森完途]
『岡崎文彬著『ヨーロッパの造園』(1969・鹿島出版会)』▽『重森三玲・重森完途著『日本庭園史大系』全35巻(1971~1980・社会思想社)』▽『重森完途編著『日本庭園の手法』全5巻(1976~1977・毎日新聞社)』▽『伊藤ていじ他監修『探訪日本の庭』10巻・別巻2巻(1978~1979・小学館)』▽『重森完途著『茶の露地』(1979・淡交社)』▽『重森完途著『枯山水』(1979・講談社)』▽『京都林泉協会編『全国庭園ガイドブック』増補改訂版(1980・誠文堂新光社)』▽『劉敦てい著、田中淡訳『中国の名庭――蘇州古典園林』(1982・小学館)』▽『西澤文隆・中村昌生監修『日本庭園集成』全6巻(1983~1985・小学館)』▽『吉永義信著『日本庭園史――昭和初期ころの回想』(1985・小学館)』
偕楽園
小石川後楽園
浜離宮恩賜公園
六義園
兼六園(冬)
諏訪館跡庭園
光前寺庭園
龍潭寺庭園
北畠氏館跡庭園
医光寺庭園
万福寺庭園
岡山後楽園
縮景園
常栄寺庭園
栗林公園
保国寺庭園
水前寺成趣園
頤和園
シェーンブルン宮殿庭園
ハドリアヌス帝の別荘
ベルサイユ宮殿庭園
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…周到な栽培管理のもとに集約的に行う農耕方式をいう。粗放的に行われる穀耕などの農耕方式との対比で,しばしば使われる用語である。対象とする作物は,野菜,果樹,花類などの園芸作物を中心とするが,必ずしも作物の種類は問題とされない。栽培法としては,すじまきや点播(てんぱん),移植,間引き,補植,中耕,培土,除草,整枝,剪定(せんてい),摘心,追肥など,各種の手作業を中心とした諸技術が,作物の特性に応じて適宜に採用される。…
…池のもつ意義にはそのおもなものとして,灌漑(かんがい)のことがまず取りあげられなければならない。つぎに文学に現れる池,また庭園の池を考えなければならない。庭園の池は最初から鑑賞もしくは造園上の風趣をそえることに目的があるが,文学の中に取り入れられた池は,むしろ灌漑池として築造された池のすぐれた景観が,人工池ではあるが自然を背景とした美しさによって,人の心をゆすぶるものである。…
…前1世紀ころに活躍したアレクサンドリアのヘロンは,サイフォンの原理を応用した〈ヘロンの噴泉〉の考案者として知られている。古代ローマにおいては,水道の建設技術の展開と庭園の愛好があいまって,宮殿や住宅,ウィラの庭を噴泉が彩るのが見られ,ポンペイの廃墟などに,その遺構を見ることができる。イタリアは中世においてもこの伝統を受けつぎ,11世紀ころからの中世都市の繁栄の時代に,都市の広場に美しい噴水を造った。…
…おおいのない土地・地面のこと。また家と家との間の狭い道,敷地内に設けられた狭い通路,のことであるが,山梨県南巨摩郡,愛知県北設楽郡,飛驒の民家では屋内の土間,北陸,北信,奥羽地方の民家では庭,京都では町屋内の庭園,東北・北陸地方では庭園,大阪府,和歌山県,香川県の民家では裏木戸門,関西地方で路地の奥にある裏長屋を意味する。いっぽう茶道では茶室(座敷)に至る通路が,庭園として整備されたのちも露地と呼ばれる。…
※「庭園」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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少子化とは、出生率の低下に伴って、将来の人口が長期的に減少する現象をさす。日本の出生率は、第二次世界大戦後、継続的に低下し、すでに先進国のうちでも低い水準となっている。出生率の低下は、直接には人々の意...
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