平戸町(読み)ひらどまち

日本歴史地名大系 「平戸町」の解説

平戸町
ひらどまち

[現在地名]長崎市万才町まんざいまち

大村おおむら町の北西にある長崎うち町の一ヵ町で、陸手に属した。町並はほぼ東西に形成され、北東本博多ほんはかた町に接する。元亀二年(一五七一)大村純忠によって町割が行われた六ヵ町の一つで(華蛮交易明細記)、平戸の貿易商了雲(平戸町乙名の新兵衛の父)が長崎の開港とともに大村町に来て平戸町の町立てに関与したという。天正八年(一五八〇)四月イエズス会に寄進されて同会領となり、同一六年豊臣秀吉の直轄領とされ、地子銀が免除された。戦国期末住民の多くはキリシタンで、長崎奉行竹中采女正の時代(寛永年間)に大半が仏教に改宗。寛永一一年(一六三四)以前に横瀬浦よこせうら町を編入(平戸町人別帳)。同一八年の平戸町人別帳では寺院の寺印が押され、のちに確立されるような寺請の体裁になっている。同帳によれば、筆頭に記される乙名石本新兵衛は平戸から長崎に移住して平戸町の草創にかかわり、朱印船貿易で富を蓄財したことで知られるが、また永く当町の乙名職にあったらしい。ほかに組頭五人と門番二・中ノ門一・日行使一がみえる。家持借家人二二八のうち家持二六(その家族を含めて六五人)にとどまり、また奉公人は八〇人。町民の出身地はこの頃は平戸出身の居住者は八人にとどまり、長崎六八人と多いほかは福田ふくだ矢上やがみ深堀ふかほり茂木もぎなどの長崎周辺や彼杵そのき郡西部があり、大村一五人、諫早いさはや七人、島原有馬ありまなど高来たかく郡内一〇人余、相浦あいのうら(現佐世保市)三人、五島一、ほかの肥前国では唐津からつなど一〇人余、壱岐一、筑前博多四、筑後国は久留米くるめなど一三人、肥後国は熊本・天草あまくさで五人、畿内の兵庫一・京都六・大坂一、泉州さかい(現大阪府堺市)七、越前一、さらに高麗九人や唐人もみられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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