広井村
ひろいむら
[現在地名]中村区下広井町・水主町・内屋敷町・笹島町・納屋町・蘇鉄町・南禰宜町・禰宜町・北禰宜町・広小路西通・名駅・那古野、西区那古野・名駅・輪ノ内町・江西町・菊井通・千歳町・明道町・井桁町・隅田町・塩町・比米町・裏塩町
現在の名古屋駅前を中心とする地域で中村区と西区にわたる。広井という地域名称は清須越し以前にすでにみられ、泥江県神社(現中区)の永禄四年(一五六一)の棟札に「禰宜三郎大夫弘井惣檀那」とある。「尾張国地名考」によれば、泥江が転じて広江となり、また広井となったという。
広井村
ひろいむら
[現在地名]美方町広井
矢田川を挟んで石寺村の対岸南方にあり、集落は同川の右岸に発達。弘治三年(一五五七)の「但馬国にしかた日記」には「ひろ井村」とみえ、当地には広井将監殿やその一族とみられる者たちが住していた。慶長六年(一六〇一)の山名豊国知行目録(池田家文書)では、高一二〇石。寛永一六年(一六三九)の知高帳、正保(一六四四―四八)頃成立の国絵図でも同高。天保郷帳では高一四〇石余。「七美郡誌稿」によれば、鎌倉時代当村は城山城主田公四郎左衛門尉景典が領有し、嘉禄年中(一二二五―二七)頃に景典の舎弟広井次郎景親が当村下司となったという。
広井村
ひろいむら
[現在地名]日高町広井
殿村の東、三方盆地の西部に位置する。慶長六年(一六〇一)六月広井村の二六〇石余が旗本八木庄左衛門光政に与えられ、元禄一六年(一七〇三)まで同家に伝えられた(→栗山村)。以後は幕府領。寛永一六年(一六三九)の知高帳でも高二六〇石余。
広井村
ひろいむら
[現在地名]三和村広井
南は米子村、東は下広田村。文禄(一五九二―九六)頃の頸城郡絵図には「山崎分槙井村 上」とみえ、本納二四石三斗三升二合・縄高九〇石二斗七升、家四軒・一六人とあり、川の左岸に描かれる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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