日本歴史地名大系 「広島浦」の解説 広島浦ひろしまうら 徳島県:板野郡松茂町広島浦[現在地名]松茂町広島長岸(ながぎし)村・中喜来(なかぎらい)浦の南、吉野川広戸(ひろと)口(現旧吉野川)と吉野川今切(いまぎれ)口(現今切川)の運砂作用によって形成された三角洲上にある。西は太郎八須(たろうはちず)村・中(なか)村(現北島町)。東・南は近世初期には吉野川河口の潟湖に臨んでいたが、一七世紀中期に三島泉斎が干拓事業に取組み、東に笹木野(ささぎの)村、南に吉野川今切口を挟んで加賀須野(かがすの)村(現徳島市)が開かれた。村域の中央部を吉野川広戸口が北西から北東へU字形に曲流し、南端は吉野川今切口が東流する。村域の西端には両川をつなぐ鍋(なべ)川があり、南部には吉野川今切口の派流である宮(みや)川が流れていた。村内には吉野川広戸口を往来するための宮前(みやのまえ)渡と浜須(はます)渡があった(郡村誌)。中世は北島(きたじま)郷に属したというが(板野郡誌)、詳細は不明。天正期(一五七三―九二)の村切の時点で吉野川河口の潟湖に臨んでいたため、漁業に従事する者が少なからずおり、浦を称し、安宅加子役を勤めた。吉野川広戸口と宮川に挟まれた地域が、近世初期に住居・田畠・寺社などがあった中心地域で、吉野川広戸口の流れの北岸と宮川の南岸は、後年に農地として開発された地域である。中心地域は屋敷(やしき)傍示・寺家(じげ)傍示・東(ひがし)傍示のおおむね三地区に分れ、屋敷傍示は徳島藩筆頭家老稲田家の水主の子孫が集住し、寺家傍示は農業を中心とする集落、東傍示は農業のほかに下寄(しもより)道(淡路街道の脇街道)沿いに諸商工業を営む集落であった(松茂町誌)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by