出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…10世紀には,請雨経法と並ぶ祈雨法として修されることが多かったが,11世紀に入ると,孔雀経法の幅広い現世利益が貴族社会で歓迎され,天変消除,除病延命,安産などの祈禱として盛行した。孔雀経法は東密各流はもとより台密でも修されたが,中でも仁和寺の性信がこの法をもっとも得意として活躍し名声を博したので,その流れをくむ東密広沢流は,後に〈孔雀経法は広沢の無双の大秘法なり〉と,他流に誇示するようになった。【速水 侑】 日本に現存する孔雀明王の遺品は平安時代後期の東京国立博物館所蔵の画像が最古の作例である。…
… 空海没後は,その高弟真済,真雅,実慧などがよく師の志を継ぎ,高野山を発展させた。こののち事相(灌頂・修法などの具体的な儀式作法)面で,小野曼荼羅寺の仁海が大成した小野流と広沢遍照寺の寛朝が大成した広沢流に分かれ,さらに2流はおのおの6流ずつに分派して〈野沢(やたく)根本十二流〉とも称せられるほど,その分化ははなはだしくなった。平安時代末期に至って覚鑁(かくばん)(興教大師)があらわれ,高野山上に大伝法院などを建立して,真言教学の再興,全密教法流の統一をはかった。…
…そののち当寺は代々法親王が法灯を継いで格式高い宮門跡寺院(門跡)として明治維新に至った。宇多天皇の入寺以後,真言宗となり,当寺を中心とする法流を広沢流という。創建から鎌倉初期までが興隆期で,門跡は四円寺や六勝寺など天皇家御願寺の検校を兼ね,広大な寺域内には歴代の天皇や皇族により諸堂舎や数十に及ぶ院家(いんげ)・子院が次々と造営され,諸国に多くの荘園をもち,全山桜にかこまれて,桜花会や競馬(くらべうま)が王朝貴族の目を楽しませた。…
…それより先,尚侍藤原淑子の病気平癒を祈って験あり,尚侍が建てた東山の円成(えんじよう)寺の別当に迎えられた。空海とその弟子たちが活動したあとを受けて,密教の興隆につくし,数々の密教の作法書などを著して,真言宗東密広沢流の開祖となった。1308年(延慶1),本覚大師の号を贈られた。…
※「広沢流」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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