へんじょう‐じヘンゼウ‥【遍照寺】
- 京都市右京区嵯峨広沢西裏町にある真言宗御室派の準別格本山。山号は広沢山。永祚元年(九八九)花山院の勅願により寛朝が創建。もと広沢池の西北、遍照寺山のふもとにあった。
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遍照寺
へんじようじ
[現在地名]右京区嵯峨広沢西裏町
広沢池の南にあり、真言宗御室派の準別格本山。広沢山と号し、本尊十一面観音。寺域はもと広沢池の北西にある朝原山(遍照寺山)の麓にあり、花山天皇の勅願により永祚元年(九八九)宇多法皇の孫にあたる寛朝が開創した。「小右記」同年一〇月二五日条に「今日遍照寺供養日也、仍辰時許渡御(中略)巳時許発乱声、供音楽、又供養大般若経、又大行道、大唐・高麗各二曲、皆是童舞、一両公卿脱者賜舞童并身高等、酉時許還御」とあり、円融法皇の渡御を伝え、「百錬抄」同日条には「僧正寛朝供
養遍照寺
」と記す。
遍照寺
へんしようじ
[現在地名]那覇市首里末吉町一丁目
末吉森の一画にある。一七六三年の改号までは万寿寺といった。大慶山と号し、東寺真言宗。本尊正観音。俗に末吉の寺とよばれる。もと護国寺の末寺で、末吉宮の神宮寺。「球陽」尚泰久王六年(一四五九)条の附に、天界寺住持鶴翁が熊野権現の告げで景泰年間(一四五〇―五六)末吉宮を創建、その後大慶山万寿寺を開いて末吉宮を看守する寺としたとある。また同書尚円王六年(一四七五)条の附には万寿寺は察度・武寧が創建し、尚思紹・尚巴志が継続して尊崇したとある。当寺には察度王の御後絵(肖像画)があったが、万暦三八年(一六一〇)の火災で焼失した(「球陽」察度王四三年条、「中山世鑑」巻二)。「琉球国由来記」および「球陽」尚貞王三年(一六七一)条によれば、当寺はもと禅宗に属していたが、同年護国寺住持頼昌が首里王府の許可を得て真言宗に改宗している。
遍照寺
へんじようじ
[現在地名]久美浜町字大向 池ノ坊
浄土山と号し、高野山真言宗、本尊は阿弥陀如来。
当寺はかつて同所にあった真言宗大覚寺末迎接寺が、昭和初年に唯一残存していた塔頭の蓮光院と合併して遍照寺となったものである。
迎接寺について「丹哥府志」は寺記曰くとして天平二年(七三〇)行基の開基とする。もと但馬境の「鉢がなる」にあり、仁治二年(一二四一)弘満が山内(現字湊宮)に移して再興したという。山内集落から山内ヶ嶽を登ると仁王門屋敷・弁天の森・寺屋敷・本堂屋敷・鎮守ヶ平の地名が残る。その後享禄二年(一五二九)空俊が現在の地に移したという。
遍照寺
へんじようじ
[現在地名]長井市横町
現長井市街地の北部にある。金剛山と号し、真言宗豊山派。本尊大日如来。草創については明らかではない。宥日による中興と伝え、宥日は永享八年(一四三六)高野山心南院永遍より法流を伝授されている(同年二月二七日「高野山心南院永遍中院心南院方印信写」寺蔵)。古くから奥の高野と称されて、下長井における真言宗弘通の拠点の一つであった。永禄一一年(一五六八)四月二〇日の伊達輝宗諸役免許状写(寺蔵)によれば、門前の諸公事および寺領段銭を免除されているが、伊達氏支配の時代は同氏の崇敬を集め、また多くの参詣人が訪れて門前には町場が形成されていたと思われ、近世初頭までは当寺に向かう門前の西に別当坊・永林坊・正覚坊、東に普門坊・宝積坊・万蔵坊の六坊があった(長井市史)。
遍照寺
へんじようじ
[現在地名]笠岡市笠岡 西ノ浜
光明山と号し高野山真言宗、本尊は五大明王。昭和五二年(一九七七)都市計画により現在地に移転したが、以前は旧小田県庁前の通りを南下した辺りの仁王堂町にあり、旧寺地には多宝塔(国指定重要文化財)が残る。一説では陶山義高が笠岡山城築城の折、当寺を城下中央の旧寺地に移転させ町の発展を図ったと伝える。開基・開山は不詳だが、元禄一三年(一七〇〇)の福山領寺社改帳(池田家文庫)は応永年中(一三九四―一四二八)、「水野記」は永享年中(一四二九―四一)の中興とする。
遍照寺
へんじようじ
[現在地名]真岡市中
中村八幡宮の南東、字峯寺前の中村城跡にある。如意山と号し、真言宗智山派。本尊は大日如来。寺伝によれば暦応四年(一三四一)中村庄茅堤に開創され、同年の源某の五重塔棟札があったという。さらに天文(一五三二―五五)頃の中村城主中村時長が中興開基となり、現在地付近に移転したが、永禄元年(一五五八)灰燼に帰し、天正年間(一五七三―九二)に現在地に再建されたという(「遍照寺古寺誌」当寺文書)。一五世紀後半の正月二三日の足利成氏書状(同文書)の宛先に遍照寺とみえ、古河公方成氏が、正月の祈祷巻数と茶の礼を述べている。また四月一一日の成氏書状(同文書)によれば、寺領錯乱により芳賀氏(成高か)のもとへ避難した住持が、祈願寺である当寺に帰れるよう芳賀氏に依頼しており、古河公方の祈願寺であった。
遍照寺
へんじようじ
[現在地名]北房町宮地
宮地の東端、旧美作国境の山中にある。真言宗御室派に属し、光明山と号する。本尊千手観音。開基は聖徳太子と伝える。延暦一一年(七九二)雷火で焼失し、弘仁年間(八一〇―八二四)空海によって再興されたという。建久九年(一一九八)には、源頼朝の命により梶原景時が堂宇を建立し祈願所に定めた。しかし建武三年(一三三六)仁王門を除いて兵火で全焼し、天正一〇年(一五八二)になって毛利輝元が堂宇を再建したが、これも承応二年(一六五三)に焼失したという。寛文元年(一六六一)になり、領主松山藩水谷勝隆が津山藩主森長継と共同で本堂を再建、祈願所とし、元禄一五年(一七〇二)には新領主である遠江浜松藩主松平資俊が祈願所とした(上房郡誌)。
遍照寺
へんしようじ
[現在地名]弘前市新寺町
新寺町寺院街、貞昌寺の門外にあり、道を隔てて天徳寺の北に位置。光明山と号し、浄土宗。本尊は阿弥陀仏。もと貞昌寺塔頭。
蓮門精舎旧詞(続浄土宗全書)によれば、元亀三年(一五七二)遠江国佐野郡出身の天良源が建てたとある。「新撰陸奥国誌」では、承応三年(一六五四)貞昌寺六代住職無角の隠居地として当寺が開かれたとあり、開山を無角とする。境内に観音堂と閻魔堂があり、観音堂は開寺当時からのものといわれる。
遍照寺
へんじようじ
[現在地名]丹原町丹原
丹原町の商店街の中央にある。光明山と号し、浄土宗。本尊阿弥陀仏。
当寺は慶安元年(一六四八)に松山藩主松平定行が創建、僧順誉が開基したもので、寛文八年(一六六八)に町中に移されたものという。宝永七年(一七一〇)の「周布郡大手鏡」には「京智恩院末寺 浄土宗、本尊阿弥陀、光明山楼起院遍照寺」とあり、寺内に薬師堂(二間四方)があるとみえる。明治初年の「伊予国周布郡地誌」には「境内東西二拾五間、南北二拾二間、面積一反九畝、村ノ乾位四拾九間字北町ニアリ」とあり、北町は寺町とも通称された。
遍照寺
へんじようじ
[現在地名]堺市櫛屋町東四丁
南御坊の北側に位置する。浄土宗、山号光台山、本尊阿弥陀如来。天正八年(一五八〇)相蓮社信誉洞庫の開創。洞庫は伊勢の人で一心院(現京都市東山区)の称念について得度(浄土伝灯総系譜)、同七年五月安土宗論の際、京都大雲院貞安らとともに出座した(信長記)。日蓮宗徒を論伏した貞安に織田信長は七条袈裟を与えたが、洞庫はさらにそれを譲られた。
遍照寺
へんじようじ
[現在地名]和歌山市里
雄ノ山川の西にある。仏光山と号し、西山浄土宗。本尊阿弥陀如来。沿革は明らかではないが、天正年間(一五七三―九二)梶取総持寺(現和歌山市)の一一代哲翁が当寺を再興したと伝え、以後同寺の末寺であった。
遍照寺
へんじようじ
[現在地名]世羅町東神崎 後庵
東神崎八幡神社の北に位置。今高野山福智院(跡地は現甲山町)の末寺で光明山と号した遍照寺を継いだ単立寺院で、本尊は弘法大師。龍華寺由緒(龍華寺蔵)によると、弘法大師が布教の途中、東神崎に小庵を結んだところとされ、「芸藩通志」には、応仁年間(一四六七―六九)までは法脈も伝えられたが、永正―大永年間(一五〇四―二八)に山崩れで建物が崩壊し、のちその南に小堂を建てて大師像を祀ったとある。
遍照寺
へんじようじ
[現在地名]花園村梁瀬
不蒔菜山と号し、高野山真言宗。本尊は弘法大師で、同大師の開創という。山号は当寺のある山に不蒔菜が生えることに由来するという。毎年一月八日に当寺大日堂と梁瀬の下花園神社で、一五歳から三〇歳までの若衆男子によって豊穣を祈る御田植神事が行われる。俗に御田とよばれ、神輿渡御・剃髪初夜の舞・回り太鼓・田打ち・溝かすり・牛呼び・種まき・田植・田刈・籾摺り・鬼走りの、稲の一生を模擬的に演じる。
遍照寺
へんしようじ
[現在地名]野辺地町 大平下
通称馬門集落のほぼ中ほどに位置する。光明山と号し、浄土宗。本尊は阿弥陀如来。寛政年間(一七八九―一八〇一)の「邦内郷村志」に「遍照寺 光明山盛岡大泉寺末寺」とある。
遍照寺
へんしようじ
[現在地名]三和町谷貝
日光東街道の西に所在。高日山妙光院と号し天台宗。本尊阿弥陀如来。左に観音堂があり、千手観世音菩薩像を安置。鐘楼・本堂と続き、石仏塔が多い。創建は文明三年(一四七一)といい、開基・開山は覚梁と伝える。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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遍照寺
へんじょうじ
京都市右京区嵯峨(さが)広沢西裏町にある真言(しんごん)宗御室(おむろ)派の寺。準別格本山。広沢山と号する。本尊は十一面観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)。989年(永祚1)宇多(うだ)法皇の孫である寛朝(かんちょう)の創建で、のちに発達した東密における小野、広沢根本二流のうち、広沢流の本寺として栄えた。しかし後世衰退の一途をたどり、近世ようやく再興した。寺宝に本尊十一面観音(かんのん)立像、不動明王坐像(ざぞう)などがあり、ともに国の重要文化財に指定されている。
[眞柴弘宗]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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世界大百科事典(旧版)内の遍照寺の言及
【寛朝】より
…東密広沢流の祖。遍照寺または広沢大僧正と号する。敦実親王の子,宇多法皇の孫。…
※「遍照寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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