中国,明代の文人,書画家。蘇州府長洲県(現,江蘇省呉県)の人。初め名は璧,字は徴明であったが,のちに広く字で知られたため,さらに字を徴仲と改めた。号は衡山,停雲生など。父の文林は成化8年(1472)の進士で温州知府に終わった。文徴明は詩文を呉寛に,書を李応禎に,画を沈周(しんしゆう)に学んで三絶と称賛され,祝允明,唐寅,徐禎卿とともに呉中四才子といわれたが,科挙には10回応じてついに合格しなかった。54歳で歳貢生として北京に赴いて翰林院待詔を授かり《武宗実録》の編修に参与したが,3年後には致仕し帰郷した。58歳のとき,玉磬山房を築き晩年は隠逸生活を送った。書は理知的で整斉明快な書風を大成し趙孟頫(ちようもうふ),祝允明以後の第一人者として呉中派を代表した。画は山水,花卉(かき),蘭竹,人物等にすぐれたが,とくに山水画は趙孟頫,元末四大家,なかんずく王蒙と倪瓚(げいさん)を師法し,平明な構図と細緻な描写,明るい色彩感と秀潤な筆墨法により沈周の影響を脱して独自の画風に到達した。高潔温和な人格で徳望が高く,長子の文彭,次子の文嘉,甥の文伯仁をはじめ陳淳,陸治,王穀祥,銭穀,周天球など多くの門人の中心人物として沈周以後の蘇州画壇を指導し,呉派を確立した。代表作に《江南春図》(台北,故宮博物院),著に《甫田集》がある。
執筆者:湊 信幸
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中国、明(みん)代中期の文人、書画家。初名は璧(へき)、徴明は字(あざな)。のち字をもって行われ、さらに徴仲(ちょうちゅう)と字を改めた。号は衡山(こうざん)。長洲(江蘇(こうそ)省蘇州)の人。科挙の試験に数度失敗したが、1523年(嘉靖2)翰林待詔(かんりんたいしょう)を授かる。ほどなく致仕して帰郷、詩書画の世界に没入した。彼の人徳とその才を慕って多くの文人が集まり、詩書画に華を咲かせることとなった。祝允明(しゅくいんめい)、徐禎卿(じょていけい)、唐寅(とういん)、王寵(おうちょう)らがその仲間となる。これは蘇州文人サークルの形成といってよく、これをもとに明代呉派の南宗画風が発展していった。書は李応禎(りおうてい)に学ぶも、王羲之(おうぎし)、黄庭堅(こうていけん)、趙孟頫(ちょうもうふ)の長所をよくとり、評判高かった。彼に唐寅、祝允明、徐禎卿をあわせて「呉中四才子」とよぶ。詩文を呉寛(ごかん)に学ぶ。画(え)は沈周(しんしゅう)の影響を受けたがさらに独自に発展させ、淡彩・淡墨による細やかで秀麗な画風をつくりあげた。子の文彭(ぶんぽう)(1498―1573)、文嘉(ぶんか)(1499―1582)も書画をよくした。画の代表作に『春深高樹図』(上海(シャンハイ)博物館)がある。
[近藤秀実]
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…明代前半に栄えた職業画工による浙派に対する語。沈周(しんしゆう)が元末四大家の画風を復興したことに始まり,文徴明とその周辺画家により様式的完成に導かれた。文徴明の親族や弟子たちの活動は16世紀後半に及び,呉派の全盛時代を築いた。…
…明代の新しい書風が起こるのは中期,すなわち15世紀の終りから16世紀の中ごろにかけての時期で,張弼(ちようひつ)がその先駆をなし,沈周(しんしゆう)は黄庭堅を学び,呉寛は蘇軾に傾倒してそれぞれ特色のある書をかいた。さらに江蘇省の蘇州から祝允明,文徴明という2人の傑出した書家が現れた。祝允明は鍾繇風の謹直古雅な小楷と,張旭,懐素を思わせる奔放な狂草によって知られる。…
※「文徴明」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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