日本大百科全書(ニッポニカ) 「寛助」の意味・わかりやすい解説
寛助
かんじょ
(1057―1125)
平安末期の真言宗の僧。仁和寺成就院(にんなじじょうじゅいん)の開祖。字(あざな)は善巧(ぜんぎょう)。成就院僧正、弁の大僧正とも称する。京都の人。俗姓は源氏。幼くして経範(きょうはん)(1031―1104)のもとで出家、伝法灌頂(でんぽうかんじょう)を受ける。鳥羽殿(とばどの)において大北斗法(だいほくとほう)、孔雀経法(くじゃくきょうぼう)など真言密教の修法を修して霊験を顕(あらわ)して以来、両法を修すること二十数度に及ぶ。その学力、法力は比類なく、法の関白と尊称された。1112年(天永3)東寺(とうじ)第37代長者(ちょうじゃ)となる。また広隆寺、法勝寺(ほっしょうじ)、東大寺の別当を歴任。門下は覚法(かくほう)(1092―1153)、信証(しんしょう)(1098―1142)、永厳(ようげん)(1075―1151)、聖恵(しょうえ)(1094―1137)、寛遍(かんぺん)(1100―1166)、覚鑁(かくばん)(以上はおのおの分派し広沢(ひろさわ)六流と称する)など33名に及び、広沢流(真言宗事相(じそう)の一派)の最盛期を築いた。
[吉田宏晢 2017年6月20日]