一般的には中国風の形式をもつとの意味で,日本固有の伝統的な和様に対していう。唐帝国の形式とは限らない。古代では唐綾,唐糸,唐鏡などは唐からの伝来品またはその形式と技法を模して製作したものを指し,上等品の意味合いがこめられていた。唐歌(からうた)は漢詩のこと,唐子(からこ)は中国風俗をした幼児である。絵画,座敷飾にも唐様といわれるものがあった。書道では江戸時代に中国の書を学んだ一派の書風を唐様という。北島雪山は明代の文人文徴明の書風を学び,細井広沢に伝えた。広沢が普及につとめた唐様は,江戸を中心に広く文人学者におこなわれ,文化・文政(1804-30)より幕末にかけて隆盛した。
建築ではとくに鎌倉時代に禅宗に付随して移入された宋・元の建築様式(禅宗寺院建築)をとり入れたものを近世になって唐様と呼び,和様や天竺様の寺院建築と区別した。天竺様は鎌倉初期に東大寺再建のため重源が中国浙江省付近の様式を学んで採用した様式で,現代では大仏様と呼ばれる。唐様という呼称も,チャイニーズ・スタイルそのものとの誤解を避けるため,現代では禅宗様と呼ぶことが多くなった。禅宗様建築の特徴は,(1)軸部の柱高が高く,貫(ぬき)を多用する,(2)組物は詰組といい,柱上のみでなく柱の間にもおく,(3)屋根の傾斜は急で,軒反(のきぞり)が強い,(4)大虹梁(だいこうりよう)を利用して構造柱を少なくし大空間をつくる減柱造,(5)虹梁上に大瓶束(たいへいづか)を用いる小屋組,(6)礎石と柱の間に礎盤(そばん)を入れる,(7)柱の上下端を丸く細める(これを粽(ちまき)という),(8)丈の高い頭貫(かしらぬき)と厚い台輪をめぐらし先端を繰形のある木鼻とする,(9)海老(えび)虹梁という曲線状の虹梁を用いる,(10)肘木(ひじき)は笹繰(ささぐり)をもち先端をまるめる,(11)垂木(たるき)は扇垂木という放射線状の配置にする,(12)内陣に鏡天井を使う,(13)窓や出入口の花頭曲線,(14)桟唐戸(さんからど)という桟で組んだ扉を使う,などである。ただ,現在みられる禅宗様建築はすべて14世紀以降のもので,13世紀に伝来した初期の遺構はない。栄西の建仁寺,俊芿(しゆんじよう)の泉涌(せんにゆう)寺,弁円の東福寺など別途に禅宗僧が伝えた初期禅宗建築は,栄西の東大寺大鐘楼,再建された東福寺をみてもそれぞれかなりのちがいがあり,画一的ではなかったと思われる。伽藍配置も中軸線上に主要殿堂を並べる原則のみ一定だが,細部にはちがいがある。現存の禅宗様は木割(きわり)が細めで,精巧な木工技術であらかじめ木作りした部材を組み立てる構法となっていること,屋根に瓦ではなく檜皮(ひわだ)や柿(こけら)を用いる例が多いこと,土壁でなく竪板壁であること,など中国伝来の技術ではなく,日本の大工技術に合わせて変形されている。日本では施主も技術者も和様にみられる繊細で神経の行き届いた細部表現を好んだためであろう。この日本化された様式は,大仏様の貫や木鼻の応用と同様にしだいに和様建築にとり入れられ,明王院本堂(広島県福山市,1321)などにみるように,鎌倉時代末には折衷様と呼ばれる仏堂が造られるようになる。また禅宗寺院だけではなく,密教本堂や日蓮宗などのほか,海老虹梁や肘木と木鼻の形式などの装飾的要素は神社建築にも使われるようになった。ただし奈良の建築には控えめな応用しかみられなかった。
→唐絵 →社寺建築構造 →禅宗寺院建築
執筆者:沢村 仁
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日本美術用語。書と建築の分野で用いられるが、意味は一様でない。
書では中国風の書という意味であるが、実際にはもっと狭義で、とくに江戸時代の儒者・文人たちの間で中国の書風に傾倒することが流行し、主として宋(そう)・元(げん)・明(みん)の書家を手本にして書いたものを、和様に対して唐様と称した。
建築では、鎌倉時代に禅宗とともに中国から伝えられた宋の建築様式を模して寺院が建てられ、唐様あるいは禅宗様と称した。これは禅寺ばかりでなく、のちには一般の寺院や霊廟(れいびょう)にも取り入れられたが、奈良時代以来の和様建築に比べると、間取り、構造、細部の装飾などに大きな相違がある。その特徴のおもなものをあげると、(1)柱の上下端に粽(ちまき)をつくって丸みをつけ、下端に礎盤を付す、(2)天井を鏡天井にする、(3)垂木(たるき)は扇垂木にする、(4)肘木(ひじき)の端(はな)を円弧状にする、(5)扉に桟で組んだ桟唐戸(からど)を用いる、(6)窓にアーチ形の曲線をもつ火灯窓を用いる、(7)虹梁(こうりょう)に曲線をもった海老(えび)虹梁を用いる、(8)堂内や回廊の床を瓦(かわら)敷きにする、などである。唐様建築の代表的な遺構には、円覚寺舎利殿(鎌倉市)、安楽寺八角三重塔(上田市)、永保寺(えいほうじ)観音堂(多治見市)などがある。
[永井信一]
中国風の書のことで,日本風の書を意味する和様に対する語。唐様・和様の区別がより強く意識されるのは,その勢力が競合している場合であり,狭義では江戸時代に行われた中国風の書をとくに唐様とよび,また限定して江戸唐様ともいう。当時は和様である御家流が公用書体として全盛をきわめ,あらゆる階級に浸透していた。そうしたなかで儒学者・文人の間では中国の書を好む傾向が強く,一貫してその姿勢を堅持したところから,とくに中国風の書が唐様として注目された。北島雪山(せつざん)・細井広沢(こうたく)らによって基礎が築かれた江戸唐様は,幕末の三筆と称される市河米庵(べいあん)・巻菱湖(まきりょうこ)・貫名海屋(ぬきなかいおく)らによって完成された。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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…同じころ明末・清初の花鳥画の手法も河村若芝,渡辺秀石ら長崎の画人により模倣されている(長崎派)。来日した黄檗僧や知識人の書に学んで〈唐様〉と呼ばれる新しい書風が北島雪山らにより興されたのも前期の終りころである。
【後期】
前期の美術の展開が,桃山的なものから江戸的なものへの移行の過程としてとらえられるのに対し,後期の美術は,より民衆的なレベルでのそれの再編,成熟の時期といえる。…
…中世までは柱の下部の床下に隠れる部分も丸くしてあるが,近世以後は八角や十六角で,丸く仕上げられていない。なお,禅宗様(唐様)では柱と礎石の間にそろばん珠のような礎盤(そばん)を入れる。角柱はすみを45度に削り落として用い,これを〈面(めん)をとる〉という。…
… 近世の書道史上に忘れてならないのは中国明人の来朝である。黄檗(おうばく)僧隠元などによってもたらされた新書法で,唐様(からよう)と呼ばれ,とくに大字にすぐれた雄渾な筆致を示している。当時明国は清に滅ぼされたため,日本に亡命する意味もあって,1653年(承応2)独立(どくりゆう)が初めて長崎に渡来,翌年隠元が来り,その門下の木庵・即非も来朝し,黄檗山万福寺の住持となった。…
…仏殿は古代寺院の金堂にあたり,本堂,大雄殿(だいゆうでん)とも呼ばれる。大寺のものは本体は五間に裳階(もこし)つきの大型堂で,中央の天井を高く張り,宋で発達した減柱造で内部柱を少なくして広く高い空間をつくり,組物は唐様三手先詰組(みてさきつめぐみ)とし,外観は重層の立派なものであった。初期の仏殿は現存していないが,広島不動院金堂はその面影を伝えるものである。…
…たとえば禅宗建築では,建物の正面の幅の1.4倍くらいが棟(むね)の高さであるから,全体の形は縦長の長方形となるが,和様の建物では棟高は建物の正面の幅と同じか,それ以下となっている。柱と頭貫(かしらぬき)とで構成される各軸部の割合は,禅宗様(唐様(からよう))では中央の間で正方形あるいは縦長の長方形となるが,和様では正方形とする。禅宗様では左右の間は中央の間の7割ほどの広さしかないから,隅にいくにしたがって,軸部の縦横の差は大きくなるが,和様では左右の間があまり狭くならないから,ほぼ正方形に近く,また長押(なげし)が外に打たれるので,柱の垂直線よりも長押の水平線の方が強調される。…
…〈やまとのかたち〉と信じられているものだが,実際には飛鳥・奈良時代に中国の唐から伝えられ,これを学び,平安時代を通じてしだいに日本人の感覚と風土に合うように変容した文化様式を指している。そして〈和様〉という用語は鎌倉時代以降新たに中国から摂取した唐様(禅宗様)や天竺様(大仏様)に対比し,それ以前から日本で広く用いられ,中国とは異なる表現となっていた様式を区別するために使われた言葉である。 建築では鎌倉時代に宋・元の新技術や様式が伝わり禅宗様,大仏様建築が建てられると,和様にも部分的にとり入れられ,鎌倉中期以降純粋の和様はほとんどみられなくなる。…
※「唐様」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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