広沢郷(読み)ひろさわごう

日本歴史地名大系 「広沢郷」の解説

広沢郷
ひろさわごう

現桐生市内相生あいおい町・広沢町周辺で、渡良瀬川右岸の茶臼ちやうす山を中心とする八王子はちおうじ丘陵山麓の段丘上一帯にあたる。延喜式内社賀茂神社の鎮座する地区(現広沢町六丁目)が古代以来の郷の中心部と思われる。伊勢神領として立券され、鎌倉期には足利氏の家領となり、のち鎌倉府の御料所(直轄領)となる。

弘安元年(一二七八)一二月八日の六波羅下知状(内閣文庫蔵)に「上野国園田御厨内広沢郷」とみえ、以前は地頭の請所であったが、当時は領家の直務となっていた。鎌倉時代末と推定される年月日未詳の足利氏所領奉行人交名(倉持文書)には「広沢郷」がみえ、鎌倉後期に至って下野足利氏(源姓)の勢力が渡良瀬川西岸一帯にまで拡大していたことが知れる。南北朝期以後鎌倉府の御料所に編入され、御家務料所として年貢「三分二御免」の地とされていた(年月日不詳「鎌倉府御料所所課注文案」諸岡文書)。「神鳳鈔」によると「二宮薗田御厨」とは別に「内宮広沢御厨」がみえ、遅くとも鎌倉後期の時点で広沢郷周辺が独自に御厨とされたらしい。

広沢郷
ひろさわごう

和名抄所載の郷。諸本ともに訓を欠くが通例に従う。「大日本史」国郡志、「日本地理志料」は広沢を広瀬の誤りとし、現熊谷市の広瀬ひろせを中心とする一帯とみる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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