水戸藩で編纂し,明治維新後も水戸徳川家で事業を継続して,1906年に完成した漢文の日本史。神武天皇から南北朝時代の終末すなわち後小松天皇の治世(1382-1412)までを,中国の正史の体裁である紀伝体により,本紀73巻,列伝170巻,志126巻,表28巻の4部397巻(別に目録5巻)で記述している。この事業に着手したのは2代藩主徳川光圀で,1657年(明暦3)に江戸駒込の藩邸に史局を設け,72年(寛文12)にこれを小石川の上屋敷に移して彰考館と命名し,ここに佐々宗淳,栗山潜鋒,三宅観瀾,安積(あさか)澹泊ら多くの学者を集めて,編纂に従事させるとともに,佐々らを京都,奈良など各地に派遣して,古文書・記録など史料の採訪に努めた(なお光圀隠居後は水戸でも編纂が進められ,のち1829年(文政12)には彰考館は水戸に一本化された)。光圀時代の編纂は本紀と列伝,すなわち伝記的な叙述の部門を中心とし,儒教道徳の見地から人物の評価を定めるところに,その主眼が置かれていた。光圀の自伝(梅里先生碑文)に,〈皇統を正閏し,人臣を是非し,輯(あつ)めて一家の言を成す〉とあるのは,その趣旨で,〈一家の言〉すなわち光圀の独自の主張を,歴史叙述の上に表現しようとしたのである。神功皇后を皇妃列伝に入れ,大友皇子の即位を認めて大友天皇(弘文天皇)を本紀に立て,また南朝を正統として本紀に列した,いわゆる三大特筆はその主張を代表するものであった。人物に対する道徳的評価は,安積澹泊の執筆した論賛に明示されている。光圀の没後,1715年(正徳5)に本紀と列伝が脱稿され,20年(享保5)には幕府に献上された。
この後,86年(天明6)ごろから事業が再興され,まず塙保己一らの助力を求めて,本紀・列伝を校訂し,1806年(文化3)から印刷に着手して,49年(嘉永2)に出版を完了した。この間に1809年(文化6)には論賛を削除し,翌年から朝廷へも献納されるようになった。制度史に相当する志・表の部の編纂は難航したが,幕末期の豊田天功と明治時代の栗田寛とが中心となって編纂を進め,10志(神祇,氏族,職官,国郡,食貨,礼楽,兵,刑法,陰陽,仏事)と5表(臣連二造,公卿,国郡司,蔵人検非違使,将軍僚属)として完成した。この長年月にわたる編纂事業は,歴史の学問的研究の発展に貢献するとともに,19世紀前半には水戸学とよばれる新しい学風を生み,思想界ならびに現実の政治上に大きな影響を及ぼした点で注目される。
執筆者:尾藤 正英
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水戸第2代藩主徳川光圀(みつくに)(義公)が、全国から多くの歴史家を招いて編纂(へんさん)した大部の日本史書。漢文体。全397巻、目録5巻。幕府の『本朝通鑑(ほんちょうつがん)』と並んで江戸時代の二大史書とされる。光圀が修史の志をたてたのは1645年(正保2)18歳のときといわれ、翌年から学者を京都方面に派遣して古書の収集を始めた。57年(明暦3)2月振袖(ふりそで)大火の直後、江戸の水戸藩駒込(こまごめ)屋敷に史局を開き、修史事業を始めた。これが『大日本史』編纂の始めである。ときに光圀は30歳、まだ世子の時代で、当然、初代藩主父頼房(よりふさ)の許しを得てのことであったろう。
その史局が初めて彰考(しょうこう)館と命名されたのは1672年(寛文12)で、光圀45歳、父の跡を継いで藩主となってから11年目にあたる。これ以後、数名から10名程度だった史館員は倍増し、のちに多いときは60名にも達しているから、史局が小石川(こいしかわ)の本邸内に移されて命名されて以後、修史事業は本格的になったと考えられる。佐々宗淳(さっさそうじゅん)、栗山潜鋒(せんぽう)、三宅観瀾(みやけかんらん)、安積澹泊(あさかたんぱく)ら当時有数の学者を動員している。彰考館は光圀が引退後の1698年(元禄11)その大部分が水戸城内に移転され、以後、水戸、江戸の両地に置かれたが、第9代藩主斉昭(なりあき)(烈公)時代に江戸は廃止された。
中国の史記に倣って紀伝体の体裁をとった『大日本史』は、本紀(ほんぎ)73巻、列伝170巻、志(し)126巻、表(ひょう)28巻に、神武(じんむ)天皇から南北朝の終期に至る歴史を記述している。光圀在世中は本紀と列伝が脱稿した程度で、志・表をあわせて397巻、目録5巻が完成したのは1906年(明治39)水戸徳川家の手によるものであった。『大日本史』の特色は史料を尊重し、京都、奈良、吉野、紀州方面をはじめ、中国、九州、北陸の一部、東北地方などに館員を派遣し史料収集にあたらせたことである。また本文では「六国史(りっこくし)」以外の史料については出典を明記している。内容では三大特筆といわれるもののうち、思想的に影響のあったのは、従来の常識を破って南朝を正統としたことである。この編纂事業を中心におこり、後世大成された学風を水戸学という。光圀と斉昭には「和文大日本史」の計画もあった。
[瀬谷義彦]
『『大日本史』全15巻(1911・吉川弘文館)』▽『『大日本史』全17巻(1929・大日本雄弁会)』
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水戸藩主徳川光圀(みつくに)および水戸徳川家の編纂による漢文体の歴史書。神武天皇から後小松天皇に至る歴史を中国の正史の体裁である紀伝体で叙述。本紀73巻・列伝170巻・志126巻・表28巻・目録5巻の402巻。光圀は司馬遷(しばせん)の「史記」を読んで編纂を思い立ち,1657年(明暦3)史局をおいて編纂を開始。1906年(明治39)完成。広範な史料収集と綿密な史料批判・史実の考証を行い,従来は歴代天皇に加えられていた神功皇后を后妃伝に移し,大友皇子の即位を認めて天皇大友紀を立て,後醍醐天皇の吉野朝廷を正統とする点が三大特筆とされる。その編纂を通して形成された尊王論は,江戸後期以降の政治状況を背景に尊王攘夷思想をうみ,幕末期の政治思想や近代日本の天皇制国家の思想に大きな影響を与えた。なお寛政期におきた編纂方針をめぐる対立は,のちの水戸藩における党争の遠因となった。
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…藤田東湖,会沢正志斎,豊田天功に学び,のち水戸藩の彰考館に入る。以後,その全生涯を《大日本史》の修史事業(〈神祇志〉〈食貨志〉〈国郡志〉)にささげた。維新後,教部省,修史館に出仕し,1892年東京帝国大学文科大学教授となり国語学,国文学,国史第一講座を担当し,水戸学派の史家として重きをなした。…
…彼が一派の神道を樹立しようとしていたことがわかる。また《大日本史》編集に努力した水戸藩においても徳川光圀は《神道集成》(1670)を編集,以後《大日本史》の神祇志編集のため幕末まで多くの学者が編集に従事した。陽明学派の熊沢蕃山も《集義外書》《三輪物語》などの中で水土論,神道論を展開した。…
…天狗党の乱は水戸藩士民だけでなく常総各地の士民をも巻き込んで展開し,筑波勢の鎮圧には幕命を受けた土浦,下妻,下館,笠間などの諸藩も加わって常総地方を混乱の極に陥れた。
[学問,文化の諸相]
水戸藩が編纂した《大日本史》397巻は,中国の正史の体裁である紀伝体により記述した史書として日本最初のもので,徳川光圀が修史事業に着手して以来250年に及ぶ歳月を費やし,1906年(明治39)に完成した。編纂に当たった学者では,前期の安積澹泊(あさかたんぱく),佐々十竹,栗山潜鋒,三宅観瀾,後期の藤田幽谷,藤田東湖,会沢正志斎らが名高い。…
※「大日本史」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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