日本歴史地名大系 「建昌城跡」の解説 建昌城跡けんしようじようあと 鹿児島県:姶良郡姶良町西餅田村建昌城跡[現在地名]姶良町西餅田思(おもい)川下流の左岸、別府(べつぷ)川下流の右岸にあたり、北西から南東へ延びる標高一一〇メートルを最高地点とするシラス台地の先端を主にした山城。瓜生野(うりゆうの)城・胡麻(ごま)ヶ城(胡摩ヶ城)ともいう。長禄二年(一四五八)のちに豊州家島津氏の祖となる島津季久が当城を築き、翌三年には季久の兄忠国が平山(ひらやま)城の平山氏を攻略した(島津国史)。季久は子息たちを平山城等に配置し、当城を本城にしようと意図したが(帖佐古記録)、季久とその子忠廉は本家島津氏の領国拡大の合戦に参加しており(島津国史)、当地には根付いていなかった。応仁・文明の乱以降、分家が本家から独立する傾向のもと季久は肥後相良氏、日向伊東氏・北原氏らと結び、文明七年(一四七五)守護島津氏を一時鹿児島から追い、同一六年には忠廉が再度守護島津氏を鹿児島から追っている(島津国史)。同一八年忠廉は伊東氏との最前線にあたる日向飫肥(おび)城(現宮崎県日南市)に移され、当城は空城となった(三国名勝図会)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by