日本歴史地名大系 「弦巻村」の解説 弦巻村つるまきむら 東京都:世田谷区弦巻村[現在地名]世田谷区弦巻一―五丁目・世田谷一―二丁目・桜(さくら)一―三丁目・上馬(かみうま)五丁目・駒沢(こまざわ)二―三丁目・新町(しんまち)三丁目・桜新町(さくらしんまち)二丁目上馬引沢(かみうまひきざわ)村の西にあり、西と北は世田谷村、南は新町村。荏原(えばら)郡に属する。西境を品川用水が流れ、矢倉沢(やぐらさわ)往還(大山道旧道)が西部を通る。村名の由来について「風土記稿」は、源義家がこの地で弓の弦をはずしたことによるという説などを記している。中世には世田谷郷に属した。永和二年(一三七六)正月二九日の吉良治家寄進状(鶴岡八幡宮文書)によれば、鎌倉公方の家臣である吉良治家が「武蔵国世田谷郷内上絃巻半分」を鎌倉鶴岡八幡宮に寄進し、同日付の吉良治家書下写(鶴岡神主家伝文書)では同所を八幡宮神主に渡すよう命じている。 弦巻村つるまきむら 愛媛県:喜多郡五十崎町弦巻村[現在地名]五十崎町福岡(ふくおか) 弦巻小田(おだ)川東岸奈良野(ならの)村から〇・五キロ余り上った台地上の小村。東は北表(きたおもて)村、南は名荷谷(みようがだに)村(現肱川町)、西は奈良野村、北は宿間(しくま)村に接する。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の喜多郡の項に「巻村 茅山有」とある。元文五年(一七四〇)の「大洲秘録」には「弦巻村 庄屋奈良野村預り、土産 米下・大豆中」とある。「大洲旧記」には、以前は只海(ただのうみ)村のうちであったが、分郷して奈良野付村になったと記している。宝暦一二年(一七六二)の「紙御役所御仕法旧記」(曾根家文書)に、半紙漉六人、小間紙漉二人とある。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by