中国、後漢(ごかん)末期におこった新宗教。干吉(かんきつ)が神人から授けられた『太平清領書(たいへいせいりょうしょ)』170巻によって、張角(ちょうかく)がこの宗教を始めたと伝えられる。これに太平道という呼称が与えられたのは、この書に基づくと考えられる。彼の教法とは、神は地上の人々の日常行為を監察しており、罪過を犯すとその罰として病気にかからせる。そこで、病人をして自己の犯した罪を反省し、神の前に懺悔(さんげ)告白させ、ふたたび罪を犯さないことを誓わせる。そのうえで、霊力があるとされる符水(ふすい)を飲ませ、聖職者(師)が神呪(しんじゅ)を唱えて神の許しを請う、というものである。このような方法で病気の治った者も多く、下層農民や流民は彼の教法を信じ、わずかな期間に、信徒が数十万人に及んだ。すなわち、太平道教団は個人的信仰に基づく集団であり、その成立には豪族の跋扈(ばっこ)による社会の変質が大きく作用していると考えられる。なお、張角は184年に黄巾(こうきん)の乱を起こしたことでも有名である。
[尾崎正治]
『福井康順著『道教の基礎的研究』(1952・理想社)』▽『大淵忍爾著『道教史の研究』(1964・岡山大学共済会書籍部)』
2世紀後半,後漢代に鉅鹿(きよろく)郡(河北省南部)の張角によって組織された中国最初の道教教団。西方の巴蜀および漢中の地域に発展した五斗米道(ごとべいどう)とほぼ時期を同じくする。〈大賢良師〉と称した張角は,病人に罪の懺悔をもとめ,お札や霊水を飲ませ,呪文をとなえて神のゆるしを請う,そのような方法で布教をすすめた。十数年の間に,信者は中国東半部の広い地域にわたって数十万人に達し,36の〈方〉とよばれる集団に組織された。大方は1万余人,小方は6000~7000人を数えたこの組織を中心として,王朝末期の窮乏農民は,184年いっせいに蜂起した。すなわち〈黄巾(こうきん)の乱〉である。張角は天公将軍と称し,弟の地公将軍張宝,人公将軍張梁とともに反乱の指導者となった。太平道と黄巾の乱の理論的根拠が《太平経》にもとめられたのかどうかについては,学者のあいだでも意見が分かれる。
執筆者:吉川 忠夫
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後漢末の2世紀後半に張角が創始した宗教結社。五斗米道(ごとべいどう)とともに道教の源流をなす。神仙思想を受け,呪文(じゅもん)で病人に懺悔させ符水を飲ませた。河北,山東を中心に農民に広まり,張角はこの衆徒をもって黄巾(こうきん)の乱を起こした。
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…黄巾の乱はその最大規模のものである。黄巾というのは蜂起に参加した人が黄色の布で頭を包んだところからよばれた名で,その母体は鉅鹿(きよろく)(河北省)の張角がはじめた太平道という。後にはこれが道教に発展する新興宗教の教団であった。…
…中国,後漢末に蜂起した黄巾(こうきん)の乱の首領で,道教の源流の一つ〈太平道〉の唱導者。鉅鹿(きよろく)(河北省中部)の人。…
※「太平道」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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