後嵯峨天皇陵(読み)ごさがてんのうりよう

日本歴史地名大系 「後嵯峨天皇陵」の解説

後嵯峨天皇陵
ごさがてんのうりよう

[現在地名]右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町

天龍てんりゆう寺境内、方丈西北にあり、後嵯峨天皇嵯峨南陵なんりようといい、陵内に法華堂が建つ。

後嵯峨天皇は土御門天皇第一皇子で、母は源通子(通宗女)。仁治三年(一二四二)執権北条泰時の擁立践祚、寛元四年(一二四六)深草天皇に譲位。その後、文永九年(一二七二)まで、後深草・亀山の両天皇二七年にわたり院政を行った。その間幕府との対立を避け、仏教を研鑽、信仰し、高野こうや熊野くまのにも巡幸(増鏡)。また和歌に長じ、藤原基家・為家に命じて「続古今集」を撰進させた。亀山天皇を愛した院は、後深草天皇の皇子をおいて、亀山天皇の第二皇子世仁親王(後宇多天皇)皇太子に擁立し、持明院・大覚寺両統の対立の端緒となった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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