御内御領(みうちごりょう)とも。北条氏の家督得宗の所領。元来,北条氏は伊豆の小豪族にすぎなかったが,承久の乱の際の敵方所領や,比企・和田・三浦など討滅した有力御家人の所領を併合することで,その所領を拡大。鎌倉後期には,300カ所にのぼる得宗領があったことが確認されている。地域的には東北と九州が最も多く,関東がこれにつぐ。その内容の大半は地頭職であり,小地頭などの代官をおいて現地支配にあたった。代官にははじめ御家人,鎌倉中期以後は得宗家の被官が任じられた。得宗家が諸国の守護を兼任するにともない,守護領のなかにも得宗領となったものが多い。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
…このときの時頼の権力の根拠は執権職にはなく,得宗という地位にあったものと考えられ,したがってこの時期に得宗専制が成立したと見ることもできる。 得宗家の権力伸張に伴って,その所領は得宗領または御内御領,御内所領と呼ばれて一般所領と区別され,一定の権威を持つようになった。得宗領在地は,初期には一般御家人が代官として支配することもあったが,やがて在地の豪族が代官に起用されることが多くなった。…
…1213年(建保1)の和田合戦,21年(承久3)の承久の乱,47年(宝治1)の宝治合戦,85年(弘安8)の弘安合戦(霜月騒動)といった政治の変動によって,従来常陸国に所領を有してきた御家人の多くは没落していった。例を挙げれば,中郡荘を支配し幕府内部でも重んじられてきた中郡氏は13世紀半ば,荘の預所(あずかりどころ)と紛争を起こし所領を没収され,その跡を幕府の要人安達(あだち)氏が得るが,同氏も霜月騒動で没落,中郡荘は得宗領化される。常陸国における得宗領の分布をみると,陸奥方面への通路である太平洋沿いの地域,久慈川沿いに陸奥へ至る地域の一部,下野,下総の国境に近い国の西部の地域など,交通の要衝をおさえる形が顕著である。…
※「得宗領」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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