御庄村(読み)みしようむら

日本歴史地名大系 「御庄村」の解説

御庄村
みしようむら

[現在地名]岩国市大字御庄

にしき川を挟んで多田ただ村の南対岸に位置し、御庄川が東寄りを北流し、村の北で錦川に合流する。山陽道は多田村より錦川を渡り、村内を南に縦断して柱野はしらの村へ抜ける。

御庄という呼称は、嘉禎三年(一二三七)一一月の周防石国御庄沙汰人等重申状(厳島神社野坂家文書)石国いわくに庄をさして用いられており(→石国庄、当村域は、かなりの広域を占めたと思われる中世の石国庄の、荘域の一部であったと考えられる。

慶長五年(一六〇〇)の領地打渡注文(吉川家文書)には「四百七十二石 三庄」とあるが、同年の検地帳には「高四百七十三石三升五合、御庄、内田方二十二町五反余、畑方三十三町二反余」とある。次いで同一五年の検地帳では、田畑の面積は同じだが村高七一〇石余となり、屋敷五七軒、市屋敷四九軒と記録される。


御庄村
みしようむら

[現在地名]三芳村御庄

山名やまな村の南に位置し、山名川が流れる。御床ともみえ、群房ぐんぼう庄に由来する地名という説がある。慶長二年(一五九七)の安房国検地高目録の山下やまもと郡内に里見氏直轄領として御庄村とみえ、高四一五石余(うち田三三五石余)。元和四年(一六一八)九月の山下郡御庄村検地帳四冊が伝えられていた(古検地帳目録)正保郷帳では高五七〇石余で北条藩領。天保一四年(一八四三)以降は府中ふちゆう村と同様の変遷房陽郡郷考では家数五六。安政四年(一八五七)の村明細帳(御庄区有文書)によれば、田三一町四反余・分米三九〇石余、屋敷畑一九町一反余・分米一三六石余。年貢米の津出しは北条ほうじよう(現館山市)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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