日本歴史地名大系 「御所八幡町」の解説
御所八幡町
ごしよはちまんちよう
東西に通る現
平安京の条坊では、町の北側が左京三条四坊一保七町南、南側が同二保六町北にあたる。平安中期以降は三条坊門高倉小路の東にあたる。
平安時代前期、町の北側は藤原定方の邸大西殿の地にあたる(拾芥抄)。
「日本紀略」長保元年(九九九)一二月一日条に「巳時、太皇太后宮昌子内親王崩、(中略)於権大進橘道貞三条宅崩給也」とある。この昌子内親王(朱雀天皇皇女・冷泉天皇皇后)の没した橘道貞の三条宅とは、同書正暦二年(九九一)四月二日条に「寅刻、太皇太后宮三条御所有火」とあるから、いわゆる三条御所のことであり、それは、同書正暦元年一〇月四日条の「太皇太后宮自資子内親王家
御所八幡町
ごしよはちまんちよう
南北に烏丸通が通る。通りの西側は中世の
元亀二年(一五七一)の御借米之記(立入宗継文書)に「御所八幡町」とあり、上京立売組に属した。天正二〇年(一五九二)には「御所八幡上半町、下半町」の二町に分れた(上下京町々古書明細記)。
寛永一四年(一六三七)洛中絵図には北側を「御所ノ八幡町」、南側を「正後院ずし」とあり、
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報